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精選女性随筆集 第九巻 須賀敦子 (川上 弘美 編)

(注:本稿は、2024年に初投稿したものの再録です。)

 須賀敦子さんの作品は、10年以上前に「ヴェネツィアの宿」を読んだことがあるのですが、それ以来になります。
 ずっと気になっていた作家さんですが、今般「精選女性随筆集」の中に見つけたので手に取ってみました。

 どの作品も上品で繊細な感性が漂いながらも、しっかりと須賀さんの思索の流路が綴られていますね。

 ということで、載録された作品の中から、特に、私の印象に残ったくだりを(かなりの長文になりますが)覚えとして書き留めておきます。

 父との思い出をモチーフにした「オリエント・エクスプレス」と題した小文。
 須賀さんは、重篤な病状にあるお父様に贈るコーヒーカップを手に入れるためにミラノ中央駅のホームに向かい、入線していたオリエント・エクスプレスの車掌長に話しかけました。

(p97より引用) ヨーロッパの急行列車でも稀になりつつある、威厳たっぷりだが人の好さがにじみ出ている、恰幅のいいその車掌長に、私は、日本にいる父が重病で、近々彼に会うため私が東京に帰ること、そしてその父が若いとき、正確にいえば一九三六年に、パリからシンプロン峠を越えてイスタンブールまで旅したこと、そのオリエント・エクスプレスの車内で使っていたコーヒー・カップを持って帰ってほしいと、人づてにたのんで来たことなどを手みじかに話した。ひとつだけ、カップだけでいいから欲しいんだけれど、領けていただけるかしら、とたずねると、彼は、はじめは笑っていた顔をだんだんとかげらせたかと思うと、低い声の答えが返ってきた。
「わかりました。ちょっと、お待ちいただけますか」
 そういって車内に消えると、彼はまもなく大切そうに白いリネンのナプキンにくるんだ 包みをもってあらわれた。・・・
「こんなで、よろしいのですか。私からもご病気のお父様によろしくとお伝えください」

 そして、急ぎ帰国した須賀さんはお父様の病室に飛び込みました。

(p98より引用) 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレス・・・・・・は?
・・・ 私は飛行機の中からずっと手にかかえてきたワゴン・リ社の青い寝台車の模型と白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。
 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。

 確かに須賀さんの綴る文は、情趣にあふれ穏やかな質感をもった出色のものだと思いますが、はやり、それを活かしているのは、心に響くモチーフやエピソードを捉えるピュアな感性なのでしょう。



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