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翻訳と日本の近代 (丸山 真男・加藤 周一)

 加藤周一氏の問いに丸山真男氏が答えるという豪華メンバーの問答形式で論が進みます。
 テーマは「翻訳」。明治期初期の翻訳について、何故、何を、如何に訳したかが語られます。

 たとえば、「論語」を例に、如何に訳したかのくだりです。
 ここでは、道徳観や政治観がその背景にある例を、「朱子」と「荻生徂徠」を材料に語っています。

(p77より引用) 「異端を攻むるはこれ害なるのみ」を、朱子の注だと「異端を学究すると本当の道がわからなくなる、だから害がある」という。これは修身的解釈です。ところが、徂徠の解釈では、「異端」は政治的な権力に対するアウトサイダーや反対派のことであり、「攻」は文字どおり、「攻める」「攻撃する」となる。異端を攻撃すると逆効果になるからやめた方がいいという意味になる。

 同じオリジナルの章句の解釈も、拠って立つバックボーンが異なると意味が全く異なってしまいます。
 特に儒教関係の書物について言えば、現在は多くの場合「教訓的」な解釈が一般になっていますが、それは「孟子」以降とのこと。

 この点に関して、丸山氏は、次のように、中国文学者の吉川幸次郎氏の言を紹介しています。(なお、ここで吉川氏が「わが国」と言っているのは「中国」のことです。

(p76より引用) そういうことをいうと、吉川さんなんかはぼくに対して反駁して、いやそれは日本の儒者が実際以上に儒教を修身的にしたのであって、「わが国の」儒教は違う(笑)、という。翻訳で読むとラディカルになるというのと似ているんだけどね。実際は、論語を見てごらんなさい、「朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや」「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」、これのどこが教訓的か。自然の人間の感情ではないかと。

 そのほかこの本で興味を抱いたのは、「社会・文化に与えた影響」という章での「進歩と進化」に関する部分でした。

(p154より引用) 進化論の影響を受けたかどうかが、中江兆民と福沢の決定的なちがいだと思うのです。兆民においては決定的です。「進化神」が出てくるでしょう。福沢のは進歩の思想なんだね。二人をくらべると進化の思想と進歩の思想の違いがよく出ている。進歩の思想は18世紀であり、進化は19世紀の後半にはじめて出てくる。進歩はいいものに決まっているけど、進化はいいとは決まっていない。・・・進化論は、自由民権の思想にも影響を持ちうるし、加藤弘之みたいに反動的な面にも利用されて、はじめから両義的な意味をもって日本に入ってくる。

 こういった解説は内容の適否はもちろんのこと、ロジカルな語りの構成が勉強になります。


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