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シェイクスピアの人間学 (小田島 雄志)

シェイクスピアの視座

 今から40数年ほど前、学生時代に小田島雄志先生の講義を受講しました。穏やかで親近感溢れる話し振りが、今でも強く記憶に残っています。

 さて、本書にて小田島氏は、シェイクスピアの生い立ちや彼の数々の作品(そのストーリーや登場人物の台詞等)から「シェイクスピアの人間観」を明らかにしていきます。

(p12より引用) 私がシェイクスピアの人間観という場合に、よく言うのは一歩引いて見る目の達人だということです。・・・
 シェイクスピアは、人間を描くとき、どういう視点から見ているかというと、必ずその人間関係のなかで見ています。・・・
 ・・・例えば親子の関係で見るときに、・・・どちらか一方の立場では見ていません。親と子の両方の立場から見ているのです。なぜ両方から見られるかというと、一歩引いて見ているからです。

 小田島氏によると、この「一歩引く」というのが、シェイクスピアのいう「道化の目」だといいます。

(p16より引用) シェイクスピアの道化の目で見れば隠れた真実が分かり、ものごとが二重三重にふくらんできます。実生活においても、一歩引いて見ると、どちらが善悪と言い切れないものがある。私は自分でも、なにものにもとらわれないで見る自由な目を身につけたいと思っています。シェイクスピアがその達人です。

 「道化の目」は外からの目です。外からの目には先入観がありません。無制限の視線です。ありえないと思うようなこともお構いなしです。
 小田島氏は、この「道化の目」の効用をこんなふうに語ります。

(p21より引用) 判断保留、つまりこんなことあり得るわけがないと、直ぐに決めてしまうのではなくて、その判断を保留することが〈もしも〉の大事な例です。あり得ないことだって、もしもあり得たらどうなるのかと想像し、だめだという判断を保留して、簡単に絶望するのではなく、「もしもだめじゃなければ」と考えてみる。みんながそういう想像力をもったら、どんな親子でも仲良くなるし、この世から戦争が消えるだろうということをまじめに考えてしまいます。

 「自由な目」は、ひとつの型を求めません。人それぞれいろいろな人がいていいじゃないか、また、ひとりの人が、あるときにはこう思い、また、あるときにはそれと矛盾する行動をとることだってあるじゃないか。シェイクスピアは、人間の多面性に肯定的です。

 シェイクスピアが活躍したころ、16世紀のイギリスは、「国教会」が設立される等キリスト教を取りまく環境が激変し、それと相まって、王室の交代に代表される政治環境も、非常に複雑な状態にありました。
 そういった社会背景を踏まえて初めて、シェイクスピア演劇のメッセージ性の特徴が理解されるのです。

(p52より引用) とくに共同制作する演劇の世界では、いろんな思想をもっている人が入っています。政治・宗教的な論争があるところで、その争いに巻き込まれて死んだ人もたくさんいました。その中をシェイクスピアは生き抜いてきました。人間万歳を言いながら、だからといって人間としてこう生きるべきだとは言っていません。人間とはこのように喜んだり、悲しんだりする存在だということは言うが、こうすべきというのはありません。

 本書の最後に、シェイクスピア研究をライフワークとしている小田島氏はこう語ります。

(p173より引用) シェイクスピアには、以上見てきたように、何ものにもとらわれずに、一歩引いて、総体的に人間を、人生を、世界を見る目を感じさせる台詞が数多くあります。半世紀以上を彼とつきあってきた私も、まだまだ彼を卒業していないようです。

シェイクスピアと文豪

 本書で、小田島氏は、ゲーテやトルストイのシェイクスピア評を紹介しています。
 これがなかなか面白いものです。

 ゲーテは、シェイクスピアを非常に高く評価しています。

(p78より引用) 「人間のモティーフというモティーフを、彼は一つ残らず描き、表現しつくしている。しかも、すべてが、なんと言う軽やかさ、何という自由さに満ちていることだろう!」

 小田島氏も、ゲーテのシェイクスピアの理解に対して、その指摘の的確さに賛辞を送っています。

 他方、トルストイです。彼は19世紀リアリズムの立場からシェイクスピアを評価します。それは、明らかに否定的評価です。

(p89より引用) 「人物が全く随意に置かれているこれらの立場はあまり不自然なので、読者や観客はそれらの人物の苦しみに同情することができないばかりでなく、読んでいる物、見ている物に対して興味も起こすことさえできなくなる。・・・」

 トルストイのシェイクスピア批判はさらに続きます。

(p90より引用) この悲劇でもシェークスピヤの他の悲劇でもすべての人物が全く時と場所にふさわしくないような生き方、考え方、言い方、動き方をしているということである。

 これに対して、シェイクスピアのセールスマンを自任する小田島氏は、こう反論しています。

(p90より引用) 私に言わせると、トルストイの批判は、絵に描いた餅を見て、「これは食えない」と文句をつけているのと同じような気がします。芝居は歴史の教科書ではないのだから、作者が「随意」に人物を配置するのは当然だし、古代ブリテンに王とか貴族とかが出てきて近代英語・・・をしゃべるのはおかしい、と言うほうがおかしいのではないでしょうか。

 ゲーテもこう言っています。

(p84より引用) 「シェークスピアの人物もまたシェークスピアの魂の何らかの意味での分身なのだ。これは正しいことだし、またそうしなければいけない。それどころか、シェークスピアは、さらに筆をすすめて、ローマ人をイギリス人に仕立ててしまっているが、これもまた正しいのだ。というのも、そうしなければ、国民は彼を理解しなかっただろう」

 小田島氏の本の中では、どうもトルストイは分が悪いようです。


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