生命と記憶のパラドクス 福岡ハカセ、66の小さな発見 (福岡 伸一)
(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)
「生物と無生物のあいだ」を皮切りに「動的平衡ダイアローグ」「フェルメール 光の王国」等々、福岡伸一氏の著作は何冊か読んでいます。
本書は「週刊文春」で連載された小文をまとめたものとのこと。とても穏やかで軽いタッチの読み物です。
本書の隋所に福岡氏一流の興味深い視座からのものの見方が開陳されています。
たとえば「働きバチは不幸か」という章。
“なるほど、こういう捉え方もあるのか”と首肯できる面白い指摘ですね。
そのほかにも「進化論」を材料にしたくだりもなかなか面白いものでした。
ときどき聞く“進化論”の説明として、「キリンの首はなぜ長くなったのか」の理由を、「高いところにある葉っぱを食べようとする努力が代々受け継がれてきたため」というものがあります。
これは、“獲得形質の遺伝”という今では否定されている考え方ですが、この説によると「使わないものは退化する」ということも導かれます。(最近では、獲得形質はRNAにより遺伝するという説も出てきているようですが・・・)
しかし、現在の考え方は「進化には目的がない」というものです。即ち「進化」は“自然淘汰”の結果に過ぎないということであり、その意味では「退化」と考えられるような変化も「進化」であるということになります。
暗いところに生きる生物には「目」が退化したものがいます。「見えなくてもいい=目がなくてもいい」というレベルではなく、目がないことに積極的な有利点がなくてはならないということです。
これについての著者の仮説は「視覚を維持しようとするための情報処理の負荷やエネルギー消費の回避」というものですが、仮にそうだとしても、そうなる(視覚を構成する要素が消失する)ためには気の遠くなるような「偶然の積み重ね」に拠るというのが進化論の考え方なんですね。