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文明の作法 ― ことわざ心景 (京極 純一)

 政治学者京極純一氏「諺」を材料にしたエッセイです。
 初版は1970年、50年ほど前の本、たまたま図書館で借りている本を読み終わったので本棚を探っていたら出てきました。私が持っていたのは1989年の版なので、教養課程での京極先生の講義(日本政治思想史?)に触発されて、後になって買い求めたものだったのでしょう。(全く記憶にはありませんが・・・)

 今読むと、丸眼鏡の先生の風貌が思い出されますし、当時の世相を映した政治学者らしからぬ洒脱な筆致もなかなかに面白く感じられます。

 それでは、収められているエッセイから、いくつか興味を惹いたくだりをご紹介します。

 まずは、「医者寒からず儒者寒し」
 事業仕分けでもテーマになった科学技術における「基礎研究」の意義についてのフレーズです。

(p15より引用) このごろ、実用に役立たない基礎研究や国民を叱りつける学問にも予算を回せ、と学者先生が訴えている。しかし、喜んで財布の紐をゆるめカネを出すよう、国民の心を仕向ける芸が、学者先生の側で、未熟な間は、「医者寒からず儒者寒し」という御時世が続きそうである。

 もうひとつ、「水母の風向かい」という諺を材料にした章です。
 これには、「欲と正論、二人三脚」というサブタイトルがついています。

(p72より引用) 「正しい」議論が次から次へと生まれても、そのままでは、クラゲのように、漂うほかない。議論には生身の体も文明の利器もついていないから、風向かいができない。・・・
 「正しい」議論に風向かいさせるには、人間の生臭い欲望を、動力や道具として、付け足さなければならない。この世間が、なかでも、政治の世界が、崇高で、しかも、愚劣なものになるのも当然である。

 このあたり、政治意識論が専門の著者らしい書きぶりだと思います。

 最後にご紹介するのは、「好きに赤烏帽子」
 集団迎合的な「流行」我が道を行く「酔狂」とを対比させて、現代社会における「酔狂」の積極的な位置づけについて語っています。

(p133より引用) 流行は社会の風俗であり、企業の営利であって、個人の酔狂ではない。
 ・・・衣装であれ、思想であれ、カッコイイことを追いかけているのであれば、何がカッコイイかをきめ、誰がカッコイイかを評定してくれる仲間うちから離れるわけにいかない。世間が何通りにも分かれているから、別の世間の常識から突飛にみえるだけのことで、その世間並みの尋常一様を追っかけているにすぎない。

 「流行」は、他者との関係性の中で維持されるものです。そこに「他者への依存性」が抜き差しならないものとして登場するのです。

 他方、「酔狂」は、自己の自由な心のなかに位置しています。

(p135より引用) なまぬるい趣味から酔狂なホビイへの変化を、これからの日本のために、歓迎してよいであろう。何の説明も弁解もなく、その人なりの心の個性に従って、好きだから好き、という純粋無雑な自然さのままに、熱中する物好きな酔狂やホビイ、これが、人間の文明を進めるさまざまな活動を、裏側から、支えるとともに、新しい工夫も、表側で、提供してきたのである。

 「酔狂」は、他者との関係性社会における自己の発露の一形態です。そして、この「酔狂」は、現代社会において、新たなものを生み出す種子となるものだと語っています。

 京極先生が本書を書かれたのは40歳代半ばです。比べるのも畏れ多いのですが、今の私より遥かに若年の筆とは到底思えません。



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