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ある老学徒の手記 (鳥居 龍蔵)

(注:本稿は、2013年に初投稿したものの再録です)

 著者の鳥居龍蔵氏明治期の考古学者・民族学者です。
 小学校を中退し、その後独学で必要な語学や専門の人類学を学んだとのこと、そういった厳しい環境下においても国際的な業績をあげた在野の研究者の自伝です。

 鳥居氏の最初の強烈なエピソードは、尋常小学校を止め独習を始めるときです。そのあたり、鳥居氏はこう述懐しています。

(p39より引用) ある教師は私に学校卒業証を所持しないものは、生活できないといわれたから、私はこれに反対し、むしろ家庭にあって静かに勉強して自己を研磨して学問をする方が勝っていると自己説を主張した。・・・それから独修することに決した。そしてその勉強法は、高等小学から中学校に至る順序で一年一年その道に進む方針を自ら定めたのである。

 10歳に満たない年齢でこういう決断を下し、しかも独学を完遂するというのは、今の時代に照らし合わせると驚愕ですね。
 確かにこのころは、江戸期の寺子屋の流れから幼いころからの教育は現在よりずっと厳しく進歩的でした。鳥居氏も6・7歳で「四書五経」を素読し、司馬遷の「史記」も学んでいるのです。

 これら多彩な読書は鳥居氏の教養に幅と深みをもたらしましたが、その中で、氏の自主自立的姿勢に大きな影響を与えた著作はサミュエル・スマイルズの「自助論」でした。

(p84より引用) 私はスマイルスの『自助論』を好んで読んだ。この書は中村正直先生が翻訳され『西国立志編』として公にされて一般によく読まれたもので、アングロサクソンの自修独立の成功を主義とし、一個人として偉大なる人になったのはすこぶる多く、ドクターなどの称号をもたない大家も尠くない。・・・ドイツの如くドクターの学位をもたなければ人でないように思うのとは、甚だしい相異である。私はこのころシュリーマンの伝を知り、この自助ということの自分に大切なるを益々信ずるに至った。

 「自助論」に感銘を受けた人はそれこそ数多いると思いますが、鳥居氏ほど、その主旨を実践した人は極めて稀でしょう。

 自らの学びを貫徹していく鳥居氏は、1895年、初めての海外フィールドワークとして遼東半島の調査を行いました。そして、その後、台湾・北千島等の調査を経て、1902年西南支那の調査に赴きました。
 その時の経験が氏の研究方法の幅を広げることとなりました。

(p199より引用) この中国行以後、私の研究方法は大分変化して来た。これは文献との関係である。台湾生蕃研究には古い文献はあまり必要はなかった。けれども西南種族に至っては、古来中国に多くの文献があり、古くは『書経』「史記』『漢書』『後漢書』以下から明清に至るまでの記述、続いて『府志』「県志』『庁志』等に至るまで読まねばならぬ。・・・そこで中国西南種族の調査には文献の伴っていることを覚り、従来自己の調査一点張りでは不可となったのである。これは私の頭脳の一変化した一エポックである。

 このように鳥居氏は、独立独歩の精神で地道な学究活動に勤しみ、国際的な業績をあげていきましたが、日本国内においては必ずしもその道は光の当たるものばかりではありませんでした。
 朝鮮総督府からの依頼による朝鮮全土に及ぶ7回の調査も後味のいいものではなかったようです。

(p325より引用) とにかくこの七回の調査によって、まず私の最初の目的たる朝鮮に確かに石器時代の存在することを知り、日本の縄文式石器時代と何らの関係なきことが確かめられ、かえって日本の弥生式系統のそれと大いに類似することを知り得たのである。私は以上を論文として発表しようと思ったが、その時すでにおそし、最終回の調査以後は、最早私を同府の嘱託はとかれ、黒板博士及び東西大学各位の仕事となり、私にはこれに関係させず、以上の人々で歴史、考古学の仕事をし、その他の人もこれに入れないで、官学者唯一となったから、私は遂に総結論をもすることができず、そのままになった。

 このあたりにも、学会の旧弊に苛立つ鳥居氏の姿を見ることができます。

 そして、本書の「結語」において、改めて鳥居氏の自主独往の生き方が、自らの言葉で語られています。

(p467より引用) 私は学校卒業証書や肩書で生活しない。私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。私は自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。されば私は私自身で生き、私のシムボルは私である。のみならず私の学問も私の学問である。そして私の学問は妻と共にし子供たちとともにした。

 自分自身の生涯に対する見事なまでの自信の発露であり、家族に対する深い感謝の念の表明の言葉です。
 今の時代には決して見ることができないとても魅力的な人物ですね。



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