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幕末史 (半藤 一利)

 あとがきによると、本書は、慶應丸の内シティキャンパスの特別講義の内容をまとめたものとのことです。話しかけるような語り口で、半藤氏流の幕末から明治初期の歴史が語られます。

 まず始めは「黒船来航」
 嘉永6年(1853)のペリー来航は、当時の鎖国体制を激しく揺るがすものでしたが、その対応に向けての議論過程が、意外な連関を辿って幕府の終焉にも影響を与えました。

(p55より引用) 幕府がそれまでの方針を変えてあらゆる人間に意見を求めたことが、のちのち尊王論にたつ幕府批判に、あるいは攘夷のイデオロギーに基づいた幕府批判へと繋がってゆき、尊皇攘夷の大議論、そして騒動がはじまるのです。

 さらに、この意見募集にはおまけの効果がありました。
 募集に応じた意見書の中には、当時31歳の勝麟太郎のものもあったのです。このときの意見が幕閣の目に留まり、その後の幕内要職への抜擢につながっていったのです。

 また、半藤氏は、幕末の思想の盛衰の危うさも指摘しています。特に「攘夷」についてです。

(p138より引用) 「攘夷」「攘夷」と言っていますが、では下級武士や浪人たちはいったいどのような理論構成のもとに攘夷を唱えたのか、当然問題になるわけです。が、正直申しまして、攘夷がきちんとした理論でもって唱えられたことはほとんどなく、ただ熱狂的な空気、情熱が先走っていた、とそう申しあげるほかはない。時の勢いというやつです。・・・テロの恐怖をテコに策士が画策し、良識や理性が沈黙させられてしまうのです。むしろ思想など後からついてくればいいという状態だったのではないでしょうか。いつの時代でもそうですが、これが一番危機的な状況であると思います。

 この「攘夷」に見られる熱狂の先走りが、再び昭和の時代に登場し、日本を大きな悲劇に導いたのでした。

 さて、そのほか、本書で語られた半藤氏の興味深いコメントをいくつかご紹介します。

 第一に、坂本龍馬の暗殺事件についてです。
 半藤氏は、近江屋での龍馬暗殺の黒幕は、薩摩の大久保利通だと推理しています。

(p269より引用) 龍馬はいまや武力倒幕などとんでもない、大政奉還をして徳川家が一大名に下がったのであれば、これからの日本は「船中八策」のように万機公論に決すべし・・・と今日の政治形態のようなことを考えています。ここで戦争をやるべきではないとさかんに主張しています。・・・つまり、権力を武力によって勝ち取ろうと意図している薩摩にとっては坂本龍馬は邪魔なんです。とんでもなく面倒くさい男なんです。

 第二は、幕府側の主役勝海舟に関する半藤氏の評価です。
 鳥羽伏見の戦いの後、江戸に逃れてきた徳川慶喜から万事を託されたのが、氷川に下がっていた勝海舟でした。

(p289より引用) 幕末にはずいぶんいろんな人が出てきますが、自分の藩がどうのといった意識や利害損得を超越して、日本国ということを大局的に見据えてきちんと事にあたったのは勝一人だったと私は思っています。

 第三は、薩摩の大久保利通についてです。
 薩摩といえば、西郷隆盛ですが、政治の舞台では大久保利通の方が一枚上だったようです。

 版籍奉還から廃藩置県という大変革を経て、明治4年(1871)に「岩倉使節団」が欧米諸国の歴訪の途に着きました。その留守中、西郷隆盛は、徴兵制・地租改正と矢継ぎ早に新制度を導入します。そして征韓論
 岩倉らが帰国し征韓論は頓挫します。敗れた西郷のあと、大変革後の政治の実権を握ったのは大久保利通でした。

(p427より引用) 生まれつきの政治家っていう人物がいる、その典型が大久保なんですね。・・・政治的な剛毅果断さ、決めたら確固として動かないところ、だれも大久保の足もとに及びません。

 そして最後に著者は、戊辰戦争以降明治初期の10年間をこう位置づけます。

(p462より引用) 戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。



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