インターネット的 (糸井 重里)
(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)
図書館の返却棚で目に止まったので手に取った本です。
著者は、あの糸井重里氏、元の著作は2001年の出版、もう10年(注:今(2023年)からだと20年)以上前のものです。
2001年といえばインターネットの急拡大からそのバブルが弾けようとしていた時期ですが、その頃、糸井氏は「インターネットの世界」をどう捉えていたのか、その後をどう見通していたのか、そこに興味を抱いて読んでみました。
インターネットの黎明期、糸井氏は、インターネットという新しいメディアをこう意味づけていました。
ネットベンチャーの華々しい登場といったお祭り騒ぎの中、糸井氏は、“インターネット的な人のつながり”に関心を抱いていました。マネタイズの絵が描けないままに「ほぼ日刊イトイ新聞」を発刊したのも、同様の関心に端を発しています。
インターネットは、誰もが受信者となると同時に発信者にもなることのできるメディアです。そこにまさにインターネットに閉じたコミュニケーションワールドが生成されます。
しかしながら、糸井氏は、その状況における課題をインターネットの外に見出しました。
こういう空間的にも時間的にも俯瞰した視座にたって物事をつかむ、この感性は流石ですね。到底私にはできません・・・。
本書では、こういったとても興味深い “糸井流思考” が随所に紹介されています。
たとえば「ものの価値(=実力・底力)」についての考察。
「肩書」「看板」の類ですね。
この「位置」にとって変わったのが「勢い」です。ベストテンとかチャートで表わされ、高速で生まれては高速で消費されていく価値です。
こういった状況では、少数の「勢いのあるもの」に、その他大勢は覆い隠されてしまいます。トップチャートに入ったものしか人々の目に触れなくなってしまう、こういう世情に糸井氏は疑問を抱き、別の切り口で行動を起こします。
これは、ちょっと前に流行った「ロングテール」の議論につながるものですね。まさに“インターネット的”思考スタイルだと思います。
もうひとつ、「消費のクリエイティビティ」という考え方。
これまでの世界は「生産」が重視され消費活動に対しイニシアティブをとっていました。消費者は、生産されたものを受けいれるか否かという受動的な立場でしかなったのです。“クリエイティブ”という言葉は、産み出される「商品」や「サービス」に冠されるものでした。
ネット社会では、以前であれば目に留まることのなかったような多種多様な情報(製品・サービス等)を得ることができます。
一人ひとりが、そういった情報(材料)を、自らの「楽しみ」のためにどう使おうか(消費しようか)と知恵を絞るようになっていくというわけです。そして消費者側がそういった様子を発信し、生産者側に影響を与えていく。これは、インターネット社会においては、生産と消費の力関係が、大きく「消費」優位に傾いていくことも意味しています。
とはいえ、糸井氏は、単純に“お客様は神様です”という考えには立っていません。
消費者=マーケットを重視することは、一部のお客様に過度に迎合することでもなければ、すべてのお客様の言い分を無批判に受け入れるでもありません。ネットを通じてより直接的に聞こえてくるお客様の声を、まずはそのまま受け取り、その声の求めているものは何か、その本質を「考える」ことが重要だとの立場です。
そして、この「考える」という行動自体も、インターネットにより飛躍的にスピードが速まり、カバレッジが拡がり、深みが増しているのです。
こういった“インターネット的”思考、それがまさに「消費のクリエイティビティ」の支柱なのだと思います。
(注:糸井さんは、「三波春夫さんの“お客様は神様です”」ということばを引用し論を進めていますが、これは三波さんの言葉の誤解例の典型ですね。有名な話ですが、三波さんの真意はオフィシャルサイトでも紹介されています。)