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京都の平熱 哲学者の都市案内 (鷲田 清一)

(注:本稿は、2013年に初投稿したものの再録です)

 「京都」というコトバには独特の響きがありますね。

 本書は、京都生まれの哲学者鷲田清一氏による「京都の町」「京都の人」をテーマにしたエッセイ風の読み物です。京都に馴染みのない私にとっては、とても興味深いくだりが満載でした。

 まず、私などは、「京都」といえば「日本の古都」というイメージをいの一番に思い浮かべますが、著者によると、それは「単層的な歴史都市」ではないという解説になります。

(p47より引用) わたしは、そんな京都の没歴史性に逆に興味をそそられる。京都人の時間感覚の欠如については、「お茶漬け」の話とならんで、たとえば京都のひとが「こないだの戦争」と言うと、それは応仁の乱のことだという、ちょっと意地の悪い話がまことしやかに流通しているけれども、むしろそういう京都人の、単純にリニアでない時間感覚には注目しておいてよい。

 こういう複雑系の時代感覚を、古いものと新しいものとが唐突に混在している「おしゃれな猥雑さ」と著者は表現しています。

 次に「祇園」
 祇園といえば「典型的な京都らしい風景」と思いきや、かつての祇園は、そういう現在のイメージとは程遠く、「混沌とした際どい雰囲気」を宿していたようです。

(p74より引用) いかがわしいものは際へ際へと押しやられる。八坂まで来るとそこはもう山の麓、この先は行き止まり。そこで行き場を失ったものが町なかにひそかに還流しかけるが、洛中はそれをふたたび際へ押し返す。そうした都と鄙のあわい、祇園という都市の隙間に、このいかがわしきものたちが、ぎらぎらと、あるいはくすんで、淀み、沈殿してゆく。

 世俗の滓が堆積し襞模様を織り成していたのが「祇園」でした。

 京都の「人」についての著者の評価も、私たちが一般的に抱いているものとは異なります。

(p144より引用) 京都が「古都」だと言うのは大嘘だ。たしかに古いものは残っている。寂れて、しっとりと。けれど、京都人ほどの「きわもの好き」「新しもん好き」はめずらしい。

 このあたりの指摘は「人」に限らず「街」についても語られています。

(p149より引用) 京都という街は、服に限らず、人間も学問も建築も、「極端」がいろんなところに設置されてきたので、そのぶん、心おきなく顰蹙もののやんちゃや冒険ができた。

 京都は、ザ・タイガース、ザ・フォーク・クルセダーズ、あのねのねといった“けったいな”グループを生んだ街でもあるのです。

 ただ、こういった「京都」も最近はかなり様変わりしてしまいました。

(p249より引用) 京都市は、「京都らしさ」のなにかをめぐって、幾度となく「審議会」を開いてきた。そして、京都らしさを明確に定義する、そういう課題が大まじめに設定されたとき、ああ、いよいよ京都の終わりが始まったとおもった。

 こう語りつつ、鷲田氏は、2000年に発表された「京都市基本構想」では京都市基本構想等審議会副会長として、取りまとめの中心役を果たされました。
 その中で整理された「京都の6つの得意技」は、“なるほど”と思わされるものです。

(p258より引用)
〈めきき〉-本物を見抜く批評眼
〈たくみ〉-ものづくりの精緻な技巧
〈きわめ〉-何ごとも極限にまで研ぎ澄ますこと
〈こころみ〉-冒険的な進取の精神
〈もてなし〉-来訪者を温かく迎える力
〈しまつ〉-節度と倹約を旨とするくらしの態度

 さて、このエッセイは「京都の街」「京都の人」の紹介が中心ですが、それはとりもなおさず「京文化」を紐解くものでもあります。
 そういうテーマ自体、とても魅力的ですが、著者独特の視点や著者一流の軽妙な語り口にも面白いものがあります。

 たとえば「うどんの佇まい」の一節。

(p98より引用) うどんはおつゆの中に漂っているが、蕎麦のように密集しているわけではない。麺はたがいに折り重なりあっても密着してはいけないのであって、おつゆのなかをそれぞれがゆったりとたゆたうというのが美しい。そして直線裁ちにされたあの同じ幅。それは衣の縞に似て、曲がりくねってもずっと平行を保つ。

 このコンテクストは、東京生まれではありますが京都帝国大学教授であった九鬼周造の「いきの構造」における「縞模様」の考察に続いていきます。

 最後に、本書を読み通しての感想です。

 鷲田氏流の京都案内の中に、これまた鷲田氏流の哲学的エスプリがトッピングされたとても面白い一冊でした。
 ここで書かれている内容について、是非とも、ほかの京都の方々の受け止め方も伺いたいですね。



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