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大人のいない国 (鷲田 清一・内田 樹)

(注:本稿は、2014年に初投稿したものの再録です)

 鷲田清一さん内田樹さん、気になる論客お二人が揃い踏みした著作で、現代日本の諸相をご両人流の視点で縦横無尽に切り込んでいきます。

 まずは、本書のタイトルにもなった「大人のいない国」を、お二人はどんなふうにイメージしているのかですが、冒頭、こんなやり取りでスタートしています。

(p15より引用) 鷲田 最近、政治家が幼稚になったとか、経営者が記者会見に出てきたときの応対が幼稚だ、などと言いますが、皮肉な見方をしたら幼稚な人でも政治や経済を担うことができて、それでも社会が成り立っているなら、それは成熟した社会です。・・・
内田 官僚や政治家やメディアに出てくる人たちがこれほど幼稚なのに、致命的な破綻もなく動いている日本社会というのは、改めて見ると、きわめて練れたシステムになっているなって、いつも感心するんですよ。
鷲田 幼稚な人が幼稚なままでちゃんと生きていける。

 日本には「大人」がいない、それでも(今は)やっていけているというわけです。とてもシニカルな表現ですが、納得感がありますね。
(ただ、最近は、正直「やっていけている」とは到底思えない壊滅的なレベルにまで落ち込んでいますが)

 しかし、その社会は、安定を損なうような想定外の事象が発生した際、それを制御できる「大人不在の社会」でもあります。

 この冒頭のお二人の対談のあと、以降、「第2章 大人の「愛国論」(内田樹)」「第3章 「弱い者」に従う自由(鷲田清一)」「第4章 呪いと言論(内田樹)」「第5章 大人の作法(鷲田清一)」「第6章 もっと矛盾と無秩序を(内田樹)」と交互に、お二人の考え・主張が開陳されていきます。

 その中で、特に私の印象に残ったのは、「大人の『愛国論』」での内田氏の指摘です。
 この章で内田氏は、「不快な隣人たち」を国民国家のフルメンバーとして受け入れることが「現代における愛国心のかたち」だと語っています。

(p58より引用) かつてオルテガ・イ・ガセー民主社会を成り立たせるぎりぎりの最後の条件「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだと書いた。オルテガがそう書いてからすでに八十年の歳月が流れた。彼の言葉はいまだに私たちの世界では「常識」に登録されていない。だが、それが常識になる日まで私たちは忍耐づよく同じ言葉を繰り返し告げねばならない。

 しばしば「愛国」は自己の思想・心情と異なる人々を排除・抑圧する形で声高に語られます。この「反対者の主張や存在も包含した国」を「愛する」という考え方は、まさに「大人」の姿勢でもあります。

 そして、本書の最後の章もお二人の対談。
 その中での「輿論と世論」について取り上げたくだりです。

(p171より引用) 鷲田 ・・・輿論はパブリック・オピニオンです。いまの世論調査は、パブリック・オピニオンの調査じゃなしに、ポピュラー・センチメントの調査なんです。感情なんです。
・・・
内田 これはね、世界中がそうなのかもしれません。みんなが感情的であることを競っている。内政だって外交だって、どう考えても、感情的な人間のほうがそうでない人間より正しい政策判断をする確率が高いなんてことはあり得ないのに。

 久しぶりに「輿論」という単語を目にしました。
 このあたり、昨今のソーシャル・ネットワークの拡大とその中で発現している特異なコミュニケーションスタイルの実態を思うと、改めて、真っ当で重要な指摘だと感じます。

 さて、本書を読み通しての感想です。
 「大人」というキーワードを発想のトリガーにして、魅力的な個性を持つ論客が縦横に「現代日本社会の幼児性」を評した、とても刺激的な著作だと思いますね。



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