7、伊都国がこんなところでいいの?
❍伊都国の場所
前回、倭国内の各国の存在した場所を導き出しました。この中で多くの人が納得できないのが、伊都国の場所だと思います。ここで、伊都国の場所を人吉盆地のあたりにあったとすることは可能なのか、検証していきたいと思います。
❍伊都国の機能
魏志倭人伝には、伊都国について次の様な3つの機能があると書かれています。
1、世有王皆統属女王国郡使往来常駐所
伊都国は、代々王がおり、女王国に従いました。そして、帯方郡の郡使が往来する時には、常に伊都国に滞在します。
2、自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史
女王国より北の地域には、特に一大率を置き諸国を検察させます。諸国は彼らを恐れ、はばかります。常に伊都国が一大率を治めます。我が国の刺吏のようなものです。
3、王遺使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
王が使者を我が国の首都や帯方郡、及び諸韓国に送る、または逆に使者を倭国に招待する時は、一大率が港に出向き、文書や贈り物の個数等を確認してから、女王の元に伝送するので粉失する事はありません。
❍なぜ伊都国が人吉盆地にあったとすると納得できないのか
これまで多くの人は次の2つの記述
一大率が港に出向き、文書や贈り物の個数を確認してから、女王の元に伝送するので粉失する事はありません
女王国より北の地域には、特に一大率を置き諸国を検察させます
から
伊都国は、港の近くにあり、邪馬台国より北側になければならないと考えます。
この様に考えるのであれば、糸島半島は最適な場所です。九州島の最北にあり、港の近くにあります。
人吉盆地だとこれらの考えは、全く当てはまりません。港からかなり離れた内陸にあります。そして、九州の南部になります。なので、納得がいかないのだと思います。
❍伊都国は邪馬台国の北側になければならないのか
自女王国以北特置一大率 検察諸国畏憚之常治伊都国
女王国より北の地域には、特に一大率を置き諸国を検察させます。諸国は彼らを恐れ、はばかります。常に伊都国が一大率を治めています。
これらの記述が、伊都国が邪馬台国より北側に存在したと考える根拠であります。
しかし、詳細に読むと女王国より北側に置かれていたのはー大率であります。
そして、特に置かれたと書かれています。つまり、わざわざ特別に、女王国の北側に置いたと書かれています。
さらに、その一大率は常に伊都国が治めていると記されています。
一大率が個人なのか、部隊なのか議論があります。私にもわかりません。どちらにしろ、今回の考え方では、一大率の下に彼(彼ら)の指導を受けた、直属の部隊があったと考えます。
これらを総合的に考えると、伊都国が女王国の北側にあるわけではなく、伊都国にある一大率の一部隊を、特別に女王国の北側に置いた
とも読めないでしょうか。
つまり、女王国の北側に置かれたのは、伊都国の駐屯基地だった。そして、伊都国は女王国(邪馬台国)の北側になければならないわけではないと考えます。
❍一大率部隊はどの様な行動をとるのか
伊都国が糸島半島にあったと考える場合の一大率の行動
使節団は、文書や贈り物をたずさえて、船で松盧国に上陸します。すると、糸島半島にある伊都国から、一大率が港に派遣され、文書や贈り物を確認し護衛を始めます。
そして、一大率と使節団は伊都国に戻り、他国の関係者は伊都国に滞在します(ここに滞在するわけではなく何らかの入国処理が行われるだけとする考えもあります)。
その後、一大率は奴国、不弥国、投馬国を通り邪馬台国まで、安全に文書と贈り物を女王のもとに伝送します。
伊都国が人吉盆地にあったと考える場合の一大率の行動
今回の考え方では、邪馬台国への行き方は松盧国に到着した後、直接邪馬台国へ向かいます。つまり、松盧国から水行十日陸行一月です。使節団は、松盧国から陸行せず、船で南へ水行し、八代あたりの港で上陸します。
そして、近くにある一大率の駐屯基地から、部隊が派遣され、文書や贈り物の個数を確認し護衛を始めます。そして、恐らく球磨川沿いの道を進んだのではないでしょうか。
すると、入るのが人吉盆地です。そこに伊都国があるので、他国の関係者はここに滞在します。そして、一大率の部隊は引き続き、さらに東の西都原遺跡付近にある、邪馬台国まで品物を安全に伝送します。
❍伊都国が人吉盆地にあったと考える場合、この様な方法で行われます
球磨川は日本3大急流河川のひとつだそうです。今でも急流船下りが体験できるようです。当時も、一大率部隊は下りの際は、有効に利用していたかもしれません。以下の通りです。(図 一大率の行動)
❍一大率の行動を比較して
この様に伊都国が、糸島半島にあったと考える場合と、人吉盆地にあったと考える場合の、一大率の行動を比べてみました。人吉盆地にあったとしても、特に違和感はないのではないでしょうか。
むしろ、糸島半島にあったと考える場合を冷静に考えると、違和感がないでしょうか。
もし、糸島半島で他国の関係者が滞在すると考えるとするなら、一大率は糸島半島に戻った後、使節団と別れて単独で何ヵ国も通過して、邪馬台国までの距離を、文書や贈り物を守りながら、陸行、水行と進みます。
また、他国の関係者が卑弥呼と会う時はどうなるのでしょうか。
人吉盆地と西都原遺跡は、比較的近いのでそのような違和感は感じられないのではないでしょうか。
❍なぜ、伊都国は一大率を女王国の北側に置いたのか
世有王皆統属女王国
伊都国は、代々王がおり、女王国に従った
つまり、一大率のような強力な部隊を持ち、女王国の側に立っているのです。恐らく、女王国の軍事的な中心と考えられます。
不屬女王
(狗奴国の紹介で)
狗奴国は女王に属さず
そして、女王国に敵対しているのが狗奴国です。女王国に対立するくらいなので、狗奴国も、伊都国と同じ様な軍事力を持っている可能性があります。以下の様になります。(図 伊都国と狗奴国の対立)
この様な図を見て、両国の位置関係から考えると、北の旁国とされる国々が、伊都国と狗奴国のどちらに付くのかが、とても重要になると思えます。
なぜ、伊都国は一大率を女王国の北側に置いたのか理由がわかります。伊都国は、なんとしても北の国々を、狗奴国側に付けるわけにはいかなかったのです。それゆえ、裏切り行為がないかなど、監視する必要があったのです。また、軍事訓練等も行われたと思います。
❍最後までお読みいただきありがとうございます。
この様に考えていくと、伊都国が人吉盆地にあったとしても、倭人伝に記述された伊都国の機能は、全て達成できると考える事が出来ます。
あくまで、ひとつの試みとしての考え方ですので、学術的な批判も多いと思います。
次回から、この様な考え方から、さらに深めていきたいと思います。御興味がおありでしたら次回以降もぜひ読んでみて下さい。
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