映画『パターソン』が好きすぎて好きすぎて仕方ない理由を話したいから、思いをnoteに綴る行為の素晴らしさについて書く。
まず言いたいのは、『パターソン』とてもとても大好きな映画です。
ジム・ジャームッシュ作品は「パターソン」と「デッド・ドント・ダイ」しか観てないという、にわかもにわかなファンです。しかも、デッド・ドント・ダイは、もう何が何だかよく分からなすぎて笑いながら観ていたので、パターソンに対する好きな気持ちとは全く違うジャンルに組み込まれてしまいました。
なので、「パターソン」が好きな人が「パターソン」が好きなだけの「パターソン」という映画の魅力を、聴いてる人が引くくらいの熱量で語る。めんどオタクの一番厄介な奴として聴いてほしいです。
なんせ、ジム・ジャームッシュ監督の意図や感性を無視してでも、胸にたぎった熱意を書きたい。と、そう思っているので。超めんどい奴です。
そもそも『パターソン』を観ようと思ったキッカケは、ポスターが愛らしかった事と、アダム・ドライバーって役者はみんなが言う程良い役者なのか?という猜疑心から、合えば最高!合わねば最悪!の博打で観てやろうじゃないか!という、邪念だらけの出会いでした。
まぁ、結果は最高でしたよ。
人生の一編に差し込まれる一作となりました。
アダム・ドライバーはこの世でも数少ない素晴らしい俳優です。
『パターソン』って何ぞや?というと、街の名前です。ニュージャージー州にあるらしいです。
その街で起こる普通の日々をアダム・ドライバーが普通に過ごして、ゴルシフテ・ファラハニさん演じる妻と、慎ましく穏やかで少しだけハプニングが起こる…普通の日常が2時間続く。
the普通の映画なんです。
あと、犬も飼ってます。めっちゃ可愛い。
自分勝手な感じの可愛らしいイングリッシュ・ブルドッグ君です。
見る人に寄っては死ぬ程退屈な映画かもしれません。なんせ、ドラマティックな展開はなぁーーんも起こらない。
起こるとしても、ラッパーがコインランドリーでラップの練習してたり、ヤンキーに絡まれるかな?って思ったら絡まれなかったり、帰宅途中に出会った少女に自作の詩を読んでもらったり。
しかも、シーン毎の繋がりはある様な無い様な…。
曖昧にシーンが切り替わって、他の日常へ移り変わっていく。本当に日常っぽい日常を描いた映画なんです。
そんな『パターソン』がびっくりする程に好きです。人生の糧です。そのくらい好き。
この好きな気持ちを表現する事は、とても難しくて、内容を攫いながら話せる様な感覚ではないんです。だから、内容を知りたいよ!って方はあらすじを調べたり、実際に映画を観てみてください。
その時に感じた気持ち。それが如何に大事なのか、この事についてこれから長々と話します。多分、めちゃくちゃ長くなります。
『パターソン』は日常を描いた映画です。日本でいうと「ぼくのなつやすみ」とか「牧場物語」とかのゲームが一番近いです。同じ日々を繰り返して、その中で些細な変化が起こる。そこに喜びを感じたり、悲しみを感じたり、時には何ともつかない漂う様な気持ちになったり。そういった感性を描いています。
『パターソン』への偏愛は、人生を生きる糧って一体何なのか?というモヤモヤした感情に答えを与えてくれた感覚から始まりました。
何気ない日常。おんなじ風景。アダム・ドライバーはバスの運転手なのですが(主人公の名前もパターソンなので色々とややこしいんです)別に普通に業務をこなして帰宅する青年です。
感情を表に出さずに淡々と日々を暮らしていて、可愛いらしい奥さんの気まぐれに付き合いながら、毎日犬の散歩に出掛けます。犬の事はそんなに好きじゃないけど奥さんが犬を可愛いがるから好きってことにしているという青年。そういった感情も特に表には出しません。ボーっと画面を観ていると、主人公は今こんな事を考えているのかな?なんて思えてきます。それが淡々と続く。
しかし、彼の日課は一日の終わりに詩を書く事です。1日がふわぁーっと過ぎて、今日も1日終わったな…と思うと仕事机に向かい、詩をしたためます。
その内容は彼の一日の興味と執心しているマッチ箱から産み出されます。作品内の一編を載せます。
これは彼がしたためた詩です。
月曜日・火曜日・水曜日…と彼はメモに気になった瞬間を書き留めて、オハイオ印のブルーチップのマッチ箱に投影します。
すると、数日後には詩が変化し情動が表現されていく…。彼の心の内が作品に反映されて色が上塗られるんです。
劇的な変化の起こらない作中は、ハッキリいって退屈で窮屈です。
バスの運転手という「ありふれた」職業を淡々と熟し、帰宅して妻の気まぐれに付き合い、犬の散歩をして、たまに一杯ひっかける。
この様な日々を自分の日常に重ねて、何と苦しく退屈で凡庸なのだろう…と感じながら過ごしている人は多いはずです。
けれど、アダム・ドライバー。劇中の主人公であるパターソンさんは微塵もそんな素振りを見せません。
運転中に乗り込んできた学生のちょっと乱暴で年相応な会話を聞くともなく聴いて、それを覚えていたり感じ取っていたり忘れない様にメモに起こしていたり。
日常の何気なさの中に『詩』を『パターソン』の『詩』の一節を見つけようとしています。
劇中で、君は詩人なのかい?と問われるシーンがありますが、パターソンは「僕はバスの運転手だ。ただの運転手」と答えます。
彼はあくまでバスの運転手として詩を綴っているのです。
そんな彼を言葉を聞いて、英詩の翻訳者という役柄の永瀬正敏は、まっさらなノートをパターソンに手渡します。詩人に向けた敬意を込めて…。
この作品の、作劇のない作劇が人の生き方だったり、日々の煌めき、感情のゆらめき、世界との繋がり、手の届く幸せ、緩やかな平穏、感情を受容する自己…etc。様々な感受性の引き出しを開けてくれる。そんな不思議な感覚。
そして、この作品の根底にある一番のテーマは、名もなきクリエイターの作家性と志。
なんで作品を作るか?
何のために言葉を綴るのか?
誰に宛てて言葉を作り出すのか?
ネットの世界。SNSの世界。
まだまだ言葉での表現が中心で、会話したり動的に伝えあったりという行為は、発信者の一方向性な表現活動としては少しずつ増えてきていますが、リアクションは文章になって跳ね返ってくる。
まだまだそんな時代。
その世界で生きている以上、何のために、誰の為に、何を想っているか。
文章の世界で会話していく。届いたらいいな…な気持ちが振れる。
この手の届く範囲の日常で何を一体創造できるのか?
不安になりながら文章を書き留めて、Twitterや noteなんかに載せる。
別に載せなくてもいいかもしれない。
そんな浮遊した感覚の中で創作活動を行う意味。一体何の意味があるんだろう?なんて思ってしまう事も多い。
世界が広いのは知っているし、誰しもが創作活動を行える広大なネットの海で、自分が書き留めた言葉に価値なんかあるんだろうか…って。
自分がTwitterやnoteを書いてる時にこんな風に文章を見つめてしまう時間が多いです。
とても重たい感情で自己顕示欲との葛藤と何も無い自分という存在の無価値さ…。
嗚呼、なんて小さな存在なんだろうって。
そんな瞬間に『パターソン』の映画のワンシーンを思い出します。
どこを切り取ったっていいんです。
犬の散歩。同僚の愚痴。バーに繋がれて飼い主を待つ愛犬。独特の感性に彩られたカーテン。カップケーキ。滝。交差点。
とにかく何でもいいからシーンを頭に思い浮かべるんです。
そうするとスッ…と、自分が戻ってくるんです。
自分って思っているよりも複雑で多彩で面白い奴だな、だけど、ちっちゃくて愛くるしく切ない世界の上で生きている、何も変わらないけれど毎日乗るバスには毎日誰かしら違う人が居たり、時には黙って時には誰かと会話して過ごしているのに気づく。日常の機微。
ちょっと話は離れてしまいますが、記憶力を競う大会に優勝した人が書いた本を読んだ事があって、その本の中でとても印象に残った話がありました。朧げな記憶で抜粋します。
この話も、自分が苦しみもがいてでも何かを掴まなければいけない時に思い出す。とても大好きな一文です。
こんな感覚があるんだなって。詩と自分が一つになる。なんて感覚を自分が今まで生きてきた中で考えた事もなかったから。
素敵なエピソードだと思っています。
「詩」にはどんなエネルギーが込められているか、自分には深く理解できていないかしれません。
山の上から大勢の人に対して語ろうとしてはダメなんだ。一人の人に向けて言葉を紡ぐことが重要なんだ。言葉の一つ一つに多角的な意味を持たせてるのが詩。とても個人的な内容によって構成される事が作品や自己を作り上げるのだと。
色々な方々のパターソンに対するコメントや記事や引用やエピソードを読んでいるとこんな事が書かれています。とても深く深く理解出来る。
けれど、自分はそもそもが「孤独」なんです。
誰にも見られる事なく、感じ取られる事なく、あるがままに生きて、必要もないのに文章を書き、自我を持ち、欲動に駆られる。
山の上から大声を出そうと思っても、自分の手の届く範囲はちっさな街程度の高さしかありません。虚しく感じる事も多い。
けれど、それが自分なんです。
何気ない自分の観念のフィルターを通して物事を見ている。
自分の趣向はホラーやミステリやSFに偏っています。
唯歩いているだけでも、通りすがった人にフィルターをかけて、この人は精神的に苦しみやもがきを感じて真っ赤に髪を染めてるんだろうな…。とか。
アクセをジャラジャラいわせるのは不安の現れかな?とか。
高級品を身に纏うのは人間という動物的感性を表出させたくないのかな?とか…。
ホラーだったら…ミステリだったら…SFだったら…どう見えるんだろうな、と。
そんな自分の歪んだフィルターを通して、毎日同じ道を通って職場に向かい仕事を熟して帰路に着く。この繰り返しです。
けれど、この繰り返しこそが、今ここに自分を表出させている原動力になっているのです。
誰に見られる訳でもなく、唯唯『パターソン』に触れることで培った、現実との向き合い方。創作や自己表現。己を曝け出しながらも、それを大きな山の上からではなく、大切な誰かへ。この気持ちを共感してもらえそうな誰かへ。届けたい。
その為に文章をしたためているに過ぎないのです。それって。その行為って何よりも素敵じゃないですか?
わたしをわかって欲しい。何でわかってくれないの?
でも、貴方の事を理解するには表現が必要です。
如何に孤独でも、息をする様に自分の内に秘める「孤独」を表出させなければ、誰からも貴方の本質は伺う事はできないんです。
noteに偏愛を綴ることはとてもとても恥ずかしいです。
でも、『パターソン』に描かれてる、市井の名もなきクリエイターへのメッセージは、選ばれた特別な人へ向けてでなくて、ありふれたという鎮撫な表現、美しく表現するとなれば、他者の介在しない自分の執心を剥き出しにして作品へ反映させる実直な行為なのだと。
『パターソン』は明言をしません。
人はこうであるべきだ!なんて、微塵も描いていません。怠惰でボンヤリとした日常を描きます。
何故なら、その日常こそがクリエイティブを心に秘める人々の、そして至極真っ当でしがらみのない創造活動なのだと語っている様に思えてならないんです。
そろそろ思いの丈が潰えてきた気がします。
熱量に折り合いがついたかな…なんて。
パターソンへの偏愛はこんな感覚です。素晴らしく怠惰に光の梯子を掛ける作品。
自分が創作活動を行う時に絶対に頭の片隅にはこの作品がある。その事を書きたかったんです。
この事は本当に最後の最後。
noteに言葉を綴る意味と、言葉拾う為の日々を自分なりに書いてみたいです。
美しい風景と日常を描く『パターソン』という映画とは違う、自己中心的な日常との向き合いを。
内的探究を行なった先にある文章を形にする作業は「怠惰な日常に自分の興味や共感のフィルターをかけて覗き込んだ残滓」だと思っています。
言葉を論理的に構築して誰からも好かれ傑作なるべくして産まれた傑作。それもあるんだと思います。
けれど、私はそれを狙った作品には興味がありません。もちろん、商業的価値から本筋を練っていく事で産まれる傑作は数多いと思うし、自分も楽しく拝見します。
けれど、私は、私個人は、その様な作品は内的探究の葛藤や複雑性、そして日常の煌めきを描く事は難しいのだと思っています。
その逆説的な現実を無視するのは如何に難しく、検索エンジンの上位に来る事なく、ネットの深海の汚泥となろうとも、自分が商業作家でなければそれはそれでいいと思っています。
書く行為、創造活動そのものが自分の一部なのですから。
それを曝け出して、綴る行為。noteに自分を表出する行為。そこに煌めきを感じます。
だから『パターソン』という映画が好きです。何度も何度も思い返します。別に映画のシーンや台詞一つ一つを覚える必要はないと思います。
何故なら、映画に備わった輝きが貴方に届いた時に、その瞬間から映画を通して見る景色や日常は絶対に変化するから。
ショッキングでも何でもない、唯唯日常を生きるという行為を想像し、生きる糧に変えて、何かやってみよう。誰にも見られなくても自己を表現してみよう。と。
そうやって人間は変化する。成長する。幸せの意味の捉え方が変わっていく。四季が移ろう様に、ゆっくりと無常に時間が揺蕩うのを感じとる事ができる。
自分って何だろう?と考える時に、ふと思い浮かぶ優しさが増える。
それが僕にとっての『パターソン』という映画なんです。偏愛という拘りは人によっては何だかな…と思うかもしれないですが、偏愛です。
何故なら、この作品はこれから一生、自分の胸の内に秘められて、自分の景色を変えてくれるから。
優しさ、なんて生優しい言葉ではない。情動との向き合い方を、淡々と映像としての揺らめきの中で、自分も揺蕩う時の流れの中で、『パターソン』と共に歩み。noteに思いの丈を綴る。
『パターソン』という映画が、僕に与えたのは、僕は僕らしく生きる事、そして呼吸をする様に自己表現を行う事。
『パターソン』が胸に刻まれ、日々に苦しんだ時に、ふと現れる劇中の光景。癒され、我に帰る。とても素晴らしい体験を与えてくれた映画。
最後にこの作品への感謝を綴ります。
『貴方が思っているよりも 僕は心を汚されているんだ
何故かって 貴方が煌めきすぎているから
マッチ箱から四角く細長い棒を取り出し
頭薬に火をつける為に箱の横のザラザラに指を放つ
この行為の様に 貴方は私に火をつけた
多分、火は消えて、炎も燻り、マッチという存在は灰になるだろう
けれど、僕には関係ない
灰を眺めながら貴方を思い出すから
素敵な瞬間を
ただマッチに火をつけただけなのに
その瞬間を忘れないだろう
人との出会いも、いつか忘れてしまう時が訪れても、心の奥底に沈殿する様に…
パターソンとの出会いも、完全に記憶する事はないけれど、自分が道に迷った時に、心の奥底からひょっこりと現れて
こっちだよ、と言ってくれる
それはこの上ない幸せ
人と人との交流の様に
貴方の事を忘れる事は永遠にないだろう』
『パターソン』と出会えてよかったという感情を言葉にできて嬉しかったです。
誰から認められなくても、この愛を綴る行為が私を表しているのだと。
川の流れの様に、相変わらず凡庸で平坦な日常に目を向けながら、『パターソン』という映画は、今日も僕の支えとなってくれています。
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