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風の歌を聴け/村上春樹 考察1
1979年4月発表の第22回群像新人文学賞受賞を受けた村上春樹の処女作を、私なりの解釈で読み解いていきたいと思います。
初めて読んだのは約5年前、読み終えた感想はよく分からない…でした。何が面白いの?と首を傾げた方も多いのではないでしょうか?でも不思議と何か余韻が残る感覚。もう一度読み返す。おや?それから何度か読み返していく内に、色んな点が繋がって、面白さが溢れてきました。
もしまだお読みでない方はぜひ一度作品を読んでみてから、私の考察ブログと共に再度読み直して頂くと面白さが増すと思います。
ただこのブログは、あくまで私個人の考えに基づく見解であって、作品全体の内容を説明するものではありません。ご了承ください。
では前置きはなるべく省いて作品に入っていきたいと思います。
1.冒頭から
何かのインタビューで作者本人が「小説を書くことの意味を見失った時にこの文章を思い出し勇気付けられる」と発言されていたくらい、作者本人がお気に入りだと自負されている冒頭ですが、
完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。/デレク・ハートフィールド
そう、かの有名なデレク・ハートフィールドの名言から入ります。主人公の僕は、「本来の意味をずっと後になって理解できた。」と書いていますが、これについて私なりに解釈した最大の意味は後のストーリーから読み解いていきます。
「少なくともある種の慰めとして受け取ることも可能であった」ということから、8年間も物書きする上で、自分が納得のいく文章を書く難しさを痛感し、完璧な文章なんて存在しないよ、大丈夫だから、と慰めの言葉として受け止めるだけでも出来たと言っているように思えます。
例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。
象=事象(ファクト)、つまり事象については書けるけど、それを応用する(ありのままに飼い慣らせる)ことは出来ないよと。あとの話で、3人の叔父が登場するが、癌で苦しみ抜いて死んだり、終戦すぐに自分の埋めた地雷で死んだり、手品師で全国を回ったり、その体験がどれほどのものであったかは本人でない限り代用して表すことが困難だと言ってるのではないかと思います。
あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老うことはそれほど苦痛ではない。これは一般論だ。
作者は一般論について別の作品で、気の遠くなるほど美しくおぞましいくらいに邪悪と述べたり、それをいくら並べても人はどこにも行けないとも言ってます。つまり20歳〜29歳の間、学びの姿勢を持ち、様々な人の話を聞き続けてじっと口を閉ざしていたが、そんな人たちは通り過ぎていくだけで、結局僕の存在意義さえ見失い、年だけ重ねていくことに苦痛を感じていたのではないかと思います。
そして30歳になり、「今僕は語ろう」と、この小説に僕の全てを語り尽くすことを決めたのは、いつか成長した先の自分が、今の自分に抱えきれないほどの絶望を救ってくれると信じているからじゃないでしょうか。その絶望とは主に存在意義について、この先のストーリーに書かれている内容となります。
再度、冒頭に登場したデレク・ハートフィールドについて書かれていますが、実はこの方、筆者が作り上げた架空の人物なのです。ヘミングウェイやフィッツジェラルドと比較してまるで実在した人物のように書かれていますが、この小説の為に作り上げられた登場人物の一人になります。
非凡な作家、つまり才能溢れる作家ではあるが、「最後まで自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。」ところが不毛であると書いています。これについて出来る限り簡単に説明すると、ポケモンって皆さんご存知ですよね?そうポケットモンスター。フィールドに出現する様々なモンスターを捕まえて、闘うロールプレイングゲームです。モンスターにはそれぞれ属性があり、電気は水に強い、地面には効かないと得意不得意があります。中でもピカチュウは10万ボルトが得意ですが、まず得意技を出す相手の属性が水なのか地面なのかを見極める必要があります。もし地面だった場合は技を出しても無効力となり、つまり不毛な闘いになります。ハートフィールドの不毛さとは、文章を武器として闘うことの出来るほど優れた文章を書く得意技があるのにも関わらず、文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目であり、テーマは稚拙。つまり小説家として闘うべきではなかったというのでしょうか。
8年と2ヵ月、不毛な闘いを続けそして死んだ。
私の見解ではハートフィールドは、筆者本人の中で作り上げられた存在、つまり、主人公僕の8年間のジレンマの事なのではないのかとも考えました。この視点でも、ストーリーを進めていく上で考えていきたいと思います。
文章を書くという作業はとりもなおさず自分と自分をとりまく事物の距離を確認することである。必要なのは感性ではなく、ものさしだ。(気分が良くて何が悪い?)
続けてハートフィールドの言葉を読み解いていきましょう。「自分と自分をとりまく事物」とは、自分に関わる出来事や人物のことであり、「その距離をものさしで確認する」とは、どれだけその出来事が重要なのか?それに関わった人物の気持ちはどれほどのものであるか?を確認することが文章を書くという作業なんだよと言っているように思えます。
僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めたのは確かケネディー大統領の死んだ年で、それからもう15年にもなる。15年かけて僕は実にいろいろなものを放り出してきた…そのかわりに殆ど何も身につけなかった…僕を焼いた後に骨ひとつ残りはすまい。
相手の事について考え始めると、相手を配慮するあまり自分を犠牲にしてしまい、いつの間に自分という存在がなくなってしまう気になりますよね。次第に周りに合わせて生きる様になり、自分が失われていくような感覚に陥ってしまいます。最終的には何も残らないんじゃないかと。それが恐いと。わかります。
暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。
死んだ祖母の言葉が書かれていますが、言い換えれば「明るい心を持てば明るい夢を見れるのよ。」という僕を見かねたお婆ちゃんの知恵袋的なアドバイスでしょうか。ただそんなお婆ちゃんも死んでしまったら、明るい夢も消えて何ひとつ残らなかったことから、どのように生きたとしても皆死んでしまったら何もなくなってしまうんだよ。と人生の意味について深く考えさせられる内容となっています。
ここまでの内容を改めて読み返してみてはいかがでしょうか?
また、この考察で使用した本をしるし書店で出品しています‼︎ガッツリと書き込んだ内容となってますので、ぜひ一度覗いて見てください☆
考察2へと続きます。