わたしとピアノ ② ノクターンの想い出と別れ
ショパンのバラードを弾き終えてほっとしたのも束の間、先生は次なる提案をしてきました。
「ねぇ、発表会に出てみない?」
発表会?!
あの、子どもたちが一年の成果を発表する舞台の?
「そう。こんなに弾けるのに、聴いてもらわないと勿体ない!」
いやいや、この難曲をステージで人に聴かせられる程度に弾ける自信は・・全くない。うーん、困ったな。
しばらくやりとりの末、バラードではなくもう少し難易度の低い別の曲なら、という条件で受けることにしました。
そうして出演することになった発表会、せっかくなので友達や職場の人にも聴いてもらおうと声をかけたところ、予想以上に好評だったのです。
「いい演奏だったよ!」
「つーさん、あんなに弾けるんだね!」
それまでは、ただ自分が楽しむために弾いていたピアノが、聴き手に届いて、そして何かしらの記憶に残るという喜びを体験したわたしは、それから毎年、子どもたちに交じって発表会に出演することになりました。
🎶 🎹 🎶
弾いた曲といえば、
ショパン ノクターン Op.27-2
ドビュッシー ベルガマスク組曲より「月の光」
ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ
ショパン ノクターン Op.48-1
ラヴェル ソナチネ
ラヴェル <連弾>マ・メール・ロア
なかでも、いまでも当時のことをありありと思い出せるのが、
『ショパン ノクターン Op.48-1』
ショパンのノクターンの中で、いちばん好きな曲。
この年の前年と前々年はフランス人作曲家の絵画のような曲を選んだので、なんとなくショパンの短調を弾きたくなったのです。
導入部はしっとりと、中間部は華やかに、後半は劇的に盛り上がる、演奏会向きの”十分に聴かせられる曲”。
発表会は毎年9月下旬。
およそ半年前から練習に取り掛かります。
まずCDを何度も聴いてイメージを膨らませてから譜読みをしていくのが、わたしのスタイル。
先生は都度、
ここはソフトペダルを使ってみて
ここはもう一呼吸おいた方が良いよ
指使いを変えてみようか
など細かな指導をしてくれますが、全体的な曲作りは一任してくれていました。
🎶 🎹 🎶
真夏の休日、いつものように窓全開で練習を始めると、10分もしないうちにじんわりと汗が滲みます。
暑い。
ノースリーブで、裸足で、髪を纏めて、扇風機を回して、
夏だから仕方ないけど、やっぱり暑い。
それでも弾く。
この曲には不思議な魅力があって、どれほど弾いてもまったく飽きないのです。
そのうちに周囲の音が聞こえなくなると、いつのまにか2時間経っていたり、一日に5時間以上練習していたこともありました。
ここまでくるともう、CDは聴きません。
だって、
わたしが表現したい音楽はそこにはないから。
あたまで考えるのではなく、
ただ無心になって
どう指から鍵盤へ伝えれば、この内なるイメージを表現できるだろうか?
それを探っていくだけ。
発表会当日、会場は収容人数300人のちいさなホール。
それは、生徒さんのご家族や友人知人が来場する程度の、ごく内輪の発表会。
小さな子から演奏が始まり、わたしの出番は後半ラスト。プログラムが進むにつれて徐々に緊張が高まります。
あぁ、心拍数が高くなってきたな。
酸素不足で欠伸がでる。
子どもの頃も、こんなに緊張してたっけ?
前の子の演奏が終わり、わたしの名前がアナウンスされたら、いよいよステージへ。
ステージの明るさに対して客席側は暗く、座っている人の顔は見えません。
『客席にいるのがナスやカボチャだと思えば緊張しない』なんて誰かが言っていたけど、それは無理だよ。
心拍数はどんどん上がる。
それを悟られないようにとびきりの笑顔をつくって、おじぎをしてからピアノの前に座れば、そこはもうわたしだけの世界。
🎶 🎹 🎶
きょうのピアノは、YAMAHAのフルコンサートグランド。
これまでに2度ここで演奏しているから、弾き心地も、いい音が出ることも知ってる。
だからきっと、大丈夫。
張り詰めた空気を破るように、ひっそりとC音のオクターブから奏で始める。
mezza voce(メッザ・ヴォ―チェ)
音量を抑えて、柔らかい音で
ゆっくりと、たっぷりと
左手と右手が会話するかのような導入部は、大好きな箇所。
ここでぐっと聴き手を惹きつけて、わたし自身も徐々に曲に入り込む。
弾きたい曲があるのは、とても幸せなこと。
あの子に聴かせたくて、
あの人に聴いてもらいたくて、
そして、この音楽とひとつになりたくて。
演奏時間はおよそ7分
コラール風の中間部を過ぎれば、あとは終章、ラストへ向かって駆け上がっていくだけ。
あぁ、これが弾ききるってことなんだ!
バラードや、ほかの曲の時には感じられなかった気持ちよさに包まれた瞬間でした。
🎶 🎹 🎶
「つーちゃんの演奏聴いたら、鳥肌がたったよ」
「わたしもまたピアノ弾きたくなっちゃった」
「つーちゃんはきっと、魂レベルでピアノが好きなんだね」
駆けつけてくれた友だちが、花束と一緒にくれた言葉。
魂レベルで?
あ、そうか。そういうことか。
一円にもならなくても、遊ぶ時間を割いても、弾かずにはいられなかったのは、そういうことだったんだ。
このあとも数回発表会に出ましたが、このノクターン以上に没入できる曲はありませんでした。
そして、結婚と引っ越しを経て他にやりたいことができたわたしは、いともあっさりとピアノから離れたのです。
34歳のときでした。