ジェイラボワークショップ第39回『人を<嫌う>ということ』【哲学部】[20220829-0911] #JLWS
今回の哲学部WSは、ジェイラボ哲学部で行なった「ひとを<嫌う>ということ」中島義道著の輪読の内容をベースにジェイラボ哲学部のオリジナルの物語を作成し、WSを行った内容のログとなります。
今回のWSの司会は私、イヤープラグさざなみ君、YY12君、Tsubo君の4人で行いました。
物語の部分に★印をつけておきましたので、★だけを読めば物語部分は読めるようになっています。
それでは早速ログに移ります。
Day1
■コバ
おはようございます。
本日から哲学部WSです。文章は夜に投稿します。
■コバ
それでは哲学部WSを始めていきたいと思います。
哲学部は今年5月から中島義道「ひとを<嫌う>ということ」を部内で輪読してきました。
その活動の中で学んだこと、感じたこと、考えたことをベースにジェイラボ哲学部による語り「人を<嫌う>ということ」を作成しました。今回の語りは青年と哲人による会話形式の物語という形を採用しました。司会は哲学部部員が順番に交代していき、その各司会者が作成した物語を投稿していくという構成になっています。この2週間を通して1つの物語が展開していくことになりますが、共同で作成しているため各章ごとに執筆者の個性が出てくると思います。
物語全体のまとまりよりも各自の個性を重視したので、そういった部分も楽しんで読んでいただけると幸いです。前置きはこれくらいにして、物語を始めていきましょう。
★コバ
「人を<嫌う>ということ」
第1章 哲学の定義
「人を嫌う」ということについて青年は思考していた。しかし、「人を嫌う」ということについて1人で思考してもなかなか考えが進まなかった。そこで青年は街の外れに住む1人の哲学者の家を訪れた。
青年:先生、私は「嫌い」について、それも「人を嫌う」ということについて考えています。そして考えてはいるのですが、どうも出口の見えない迷路に迷い込んでしまったようなもので、私はなんとかこの迷路の出口まで辿り着きたいのです。
哲人:なるほど。「人を嫌う」ということについてですか。どのような迷路に迷い込んでしまったのか、もう少し詳しく教えてください。
青年:はい。「人を嫌う」ということについて意識し始めるようになったのは1年ほど前からです。きっかけは明確には覚えていません。テレビで殺人事件のニュースを見た時だったでしょうか。それとももっと些細な事、学校の先生に怒られた時、あるいは友人と喧嘩した時だったでしょうか。いずれにしても、いつしか私の中に、「人が嫌い」という感覚が芽生えていました。
そしてこの感覚は非常に厄介で、この感覚を意識し始めてから何も楽しくなくなってしまったのです。いや、正確にはもちろん日頃楽しいことはあります。しかし今まで意識しなかった「人に対する嫌い」を意識するようになり、楽しいことをしていてもそちらの方に意識が行ってしまうようになってしまったのです。
周りの人に相談しても、「人を嫌う」ということについて話を振るとみんな「そんな話よりもっと楽しい話をしようよ」と、真剣には取り合ってくれませんでした。なので、哲学をしておられる先生ならば、この「人を嫌う」ということについてもその哲学で答えを出してくださるのではないか、そう思い本日はお伺い致しました。
哲人:事情は分かりました。それでは「人を嫌う」ということについて哲学していきましょう。それでは早速ですが、哲学の定義とは何だと思いますか。
青年:哲学の定義?なぜそんなことを聞くのですか。
■コバ
それでは初日アンケートです。
「人を嫌う」ということについて深く思考したことがありますか?
はい 2
@Daiki, @コバ
いいえ 16
@Tsubo, @Hiroto, @Naokimen, @Takuma Kogawa, @チクシュルーブ隕石, @イヤープラグさざなみ, @けろたん, @イスツクエ, @ていりふびに, @蜆一朗, @ゆーろっぷ, @Shun, @Yujin, @YY 12, @シト, @あんまん
■コバ
可能であればその詳細もお教えください。
その他WSに関連して、気付いたこと、考えたこと、語りたいこと、WSの司会者に問いかけたいことや感想等あればこの2週間はご自由に記述ください。
■Daiki
特に「家族を嫌う」 と「(他の人が)私を嫌う」言い換えれば「人から嫌われる」について深く考えたことがあります。幼い頃から家族の考え方や態度などが好きではなかったのですが、家族とは長時間一緒にいなければならなかったので、考えざるを得ませんでした。人から嫌われることについて深く考えていたのは、私が極度の寂しがり屋だからだと思います。
■Daiki
嫌いって何か、私が嫌っている対象が本当に「人」なのかどうか、なぜ嫌われるのかなど考え(たことがあり)ます。
■コバ
「人を嫌うこと」というようなネガティブかつ抽象的な事柄については、考えざるを得ない状況に置かれないと深く思考するということは普通無いのかもしれませんね。
Day2
★コバ
哲人:あなたは先ほど、『この「人を嫌う」ということについてもその哲学で答えを出してくださるのではないか』そう仰いましたね。そして私は先ほど申し上げたように、これから「人を嫌う」ということについて哲学していきます。そのためにはまず「哲学」この言葉を定義しなければなりません。そうしなければ、ただフワッと「哲学っぽいもの」をすることになってしまいます。それはあなたも望んでいないでしょう。
青年:はい、私は今日真剣に「人を嫌う」ということについて考えるためにここに来ています。しかし、哲学の定義ですか。今まであまり考えたことがありませんでした。
哲人:私の考える哲学の定義とは「突き詰めて抽象思考すること」です。そして今日はあなたにも一緒に「人を嫌う」ということについて突き詰めて抽象思考していただきたいと思います。
青年:分かりました。しかし、、、
哲人:どうしたのですか?青年 私が今日先生に会いに来たのは、哲学することで今私の頭にこびり付いているこの「人を嫌う」ということについて答えを出すためです。そして私の中で、その「答え」が私にとって都合の良いものである、つまりその「答え」は私の人生を明るく楽しいものに導いてくれるものだという期待がどこかにあるのです。しかし、突き詰めて抽象思考した先の答え、それが「私の人生を明るく楽しいものに導いてくれる」という保証はどこにもないのではないか、そんな嫌な予感が過ぎってしまったのです。
哲人:そうです。哲学するということは「ゴールありき」ではないのです。そして突き詰めて抽象思考した先にあるものが、自分に都合の良い「答え」である保証などどこにもありません。それをもしかしたら「怖い」と感じる人もいらっしゃるかもしれません。
青年:茨の道という可能性もあるわけですね。とはいえ私はもうこの道を進むしかないようです。
■コバ
以上が第1章となります。明日以降は第2章に入ります。担当はさざなみ君です。
引き続きアンケートの回答等、ご自由に記述ください。
■チクシュルーブ隕石
人を嫌うとはどのようなものかを思考し始める前に(特定の)人が嫌いという状態になっていた為に、あまり人を嫌うこと自体について根源的な意味まで深く考えた経験がありません。
ただ以前「好きの反対は無感情である」という言説を聞いた際に嫌いという感情の立ち位置はどちらに近いのかという事を考えたことはありました。その問題について考えた時には、人が他者を嫌いである時の態度として無感情であろうと振る舞うことも、積極的に意識して避けるということもあるので、どちらでもない第三勢力的な存在なのかなと思っていました。
■コバ
コメントありがとうございます。
「好きの反対は無感情か?」や「人が嫌い」を思考するより「特定の人が嫌い」という状態が先立つ、という事項は「人を嫌うということ」を考えるうえのスタート地点として非常に良い視点です。
そういった視点を意識しながら明日以降の語りも読んでいただくと新たな発見があるはずです。
Day3
■イヤープラグさざなみ
続きは夜に投稿します。
★イヤープラグさざなみ
第2章 考えるための足掛かり
哲人:とはいえいきなり抽象思考を始めるのも難しいでしょう。まずは、考えるための材料を整理していきます。あなたが日常的に感じる「嫌い」を分析するのです。抽象思考を突き詰める以前、すなわち対象の分析やその結果の整理の段階にこそ、新しい気づきがあるものです。
青年:「嫌い」の分析は確かに必要ですね。私は「嫌い」に悩まされているとはいえ、実はそれがどういうものなのかをよくわかっていないのです。「嫌い」がよくわからないので、それと対称的な「好き」との比較を通じて「嫌い」とは何かを探っていきたいと思います。
哲人:それは良い考えですね。比較対象を用意することで、間接的に対象の核の部分へと近づくことができるでしょう。しかし気をつけなければいけないことがあります。それは、対比をする際の「対称軸」の設定です。
青年:「対称軸」とはなんですか?
哲人:はい、「対称軸」の設定とは、比較する際に対象のどの側面に注目するかを決めることです。何かと対称的な位置にあるものは一つとは限りません。対称軸の設定の仕方によって、幾通りもの対比が考えられるのです。「好き」と「嫌い」は対称的であるのはそのとおりなのですが、「相対的である」と言ったほうがより正確でしょう。「好き」と「嫌い」は片方だけでは存在し得ず、両者は同時に誕生する概念なのです。
青年:なるほど、対象のどこに注目するかで比較の仕方が複数あるという考えが私にはありませんでした。
哲人:では、「好き」との比較に戻りましょうか。あなたが日常的に人を好きになったり嫌いになったりするのはどんなときですか?
青年:そうですねぇ…
Day4
■イヤープラグさざなみ
続きは今晩に投稿します。
★イヤープラグさざなみ
青年:遭遇する回数としては、「好き」よりも「嫌い」のほうがずっと多い気がします。人を好きになるのも嫌いになるのも、相手の些細な言動がきっかけである場合が多いですね。ただ、「嫌い」は相手(人間)を嫌っているというよりも、相手の言動(行動)を嫌っているという感じのほうが近いんですよね…。哲人:なるほど、行動とそれを起こした本人を分けて考えているということですね。青年:はい、そうです。ただ、その人が起こした行動が嫌いならば、その人も嫌いであると考えるのが自然だということもわかっているんです。私は意識的にその自然な流れに抗っているのだと思います。なぜ人を嫌いたくないのかといえば、嫌うことは疲れるからです。せっかく出会ったのだから、目の前の人間を「嫌い」で一蹴せずに、この人から何かを学び取らなければと無理やり考えている節もあると思います。どちらにせよ、「嫌い」は避けたいと考えることも自然だと思います。哲人:自分の意識に上った感情は大事にしましょう。それの原因がわからなくても、そういう感情を抱いたことは事実なわけですから、そこが出発点です。「嫌い」を避けたいのが自然であるならば、「好き」の方はどうですか。
あなたは自分のことが好きですか?それとも嫌いですか?
好き 5
@あんまん, @Naokimen, @Hiroto, @Takuma Kogawa, @イスツクエ
嫌い 2
@チクシュルーブ隕石, @Yujin
その他(記述) 6@ていりふびに, @YY 12, @蜆一朗, @chiffon cake, @ゆーろっぷ, @Daiki
■イヤープラグさざなみ
続きは明日の投稿です。明日もアンケートを予定しています。WSに関連して気づいたことや考えたこと、語りたいこと、司会者に問いかけたいことや感想などはいつでも受け付けています。
■ていりふびに
好きか嫌いかという軸で自分を捉えることが難しく感じました。そこで、自分が好き、自分が嫌いだとハッキリ言えるものの共通点を探ってみると
好き:対象と距離を近くにしたい
嫌い:対象と距離を遠くにしたい
が一番しっくりきました。その意味で考えると「自分」と「自分」の距離を変えることはできないから、
好きでも嫌いでもないのだと思います。
■イヤープラグさざなみ
コメントありがとうございます!返信する内容を考えています…。
■イヤープラグさざなみ
自分が好きという場合の対象は自分そのものではなくて、自分「の」ここが好きというふうに、自分が持っているなんらかの性質ですね。性質は自分の外側にあるので、変えようと思えば変えられます。
Day5
★イヤープラグさざなみ
青年:「好き」は「嫌い」とは違って、明確な原因がなくても抱くことがあるし、「好き」を感じているときはなんだか心地が良いです。誰かを「好き」になるのは、その人が目の前にいるときよりも、あとでその人のことを思い出したときのほうが多い気がいます。「好き」に付随するあの心地よさを感じるために「好き」を作り出しているのかもしれません。
■イヤープラグさざなみ
本日もアンケートを実施します。
「嫌い」は避けたく、「好き」は心地いいという感覚に共感しますか?
はい 12
@Naokimen, @YY 12, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @イスツクエ, @chiffon cake, @ゆーろっぷ, @Shun, @Tsubo, @あんまん, @Daiki
いいえ 2
@Yujin, @Hiroto
その他(記述) 1
@Daiki
■イヤープラグさざなみ
続きの進行はYY12さんに引き継ぎます。WSに関連して気づいたことや考えたこと、語りたいこと、司会者に問いかけたいことや感想などはいつでも受け付けています。
Day6
■YY12
続きはお昼に投下します
★YY12
第3章 〈嫌い〉ということ
「嫌い」とは具体的にどのような状態を表すのかを考えたいと思います。青年:今まで「嫌い」という言葉が出てきていますが、「あの人が嫌い」「虫が嫌い」と言う時、それは具体的にどのような状態を指しているのでしょうか。よく分かりません。哲人:なるほど。では、「嫌い」が使われる状況を考えて、その感情がどう言い表せるか考えてみましょうか。当然、様々な見方が出来ると思いますが、自分がしっくりくる形で出来る限りその要素を具体化してみましょう。青年:例えば、日常的な事でいうと配慮が足りなかったり相手を傷つけるような人間は嫌いですね。これにはもしかしたら怒りなども入ってきそうですが、一般的に見てもこのような場合は人を嫌っているといえそうです。そういう時には、やはり「不快感」というのを自分の中に強く感じます。哲人:それは私も重要な要素だと思います。しかし、不快感ではいささか説明不足かもしれません。「嫌い」が単に不快ならそれで言い表せるからです。嫌いには、言うなれば「攻撃性・拒絶」の要素も入っているのではないでしょうか。誰しも「嫌いな人・もの」を遠ざけたいという感情は避けられません。青年:しかし、それは不快に付属するものであって、「嫌い」に入ってくるものなのでしょうか。不快に思えば誰だって拒絶しそうなものですが。哲人:確かに不快に思えばほとんどの場合で拒絶は起こりそうです。それを踏まえると、「嫌い」とは「不快感を持ち、かつその中でも少なからぬ攻撃性・拒絶を伴うもの」と言えるでしょうか。
Day7
■YY12
では、ここで問をしたいと思います。
Q 以上の対話の中で示された「嫌い」の説明について納得できるか否か。出来ないなら、どういった点がひっかかるか。
■あんまん
私の言語感覚では「嫌い」と「嫌(いや)」を分けています。言語使用者に対して、不快な想いをさせる、遠ざけたい気持ちにさせる点で両者は共通しているのですが、前者は「自分が」という部分にフォーカスしています。例えば、私が誰かにいじめられているとします。その時、私からすると、いじめてくる人は私に不快な想いをさせる「嫌い」な人です。一方で、第三者が、私が虐められているのを目撃した時、この人は私をいじめている人に対して「嫌い」という感情を抱くでしょうか。この人は、いじめの加害者に対して、不快な想いを抱いているでしょう。けれども、「嫌い」という感情を持つには、よほどの共感能力がない限り、なんだかまだ足りないような気がします。だから、「嫌い」という言葉には、『「自分」があなた(それ)を嫌い』というニュアンスを含むという感覚があります。「嫌」は共感可能で「嫌い」は共感不可能といった感じでしょうか。
■YY12
回答ありがとうございます。
感情を考えるうえでその主体や対象も考慮している点が非常に興味深ったです。私の感覚でいうと「嫌いと嫌(いや)」の違いは単に強弱の差だと捉えてしまうのですが、確かにあんまんさんの分類(あるいは細分化)もしっくり来ます。
■Takuma Kogawa
Q. 「嫌い」は避けたく、「好き」は心地いいという感覚に共感しますか?
A. 素朴には、嫌いなものは遠ざけたいし、好きなものは近くに置いておきたいと思います。相手が人間でもモノでもそう思います。しかし、好きゆえに心地よさを感じない例もありそうです。例えば、恋愛対象への気持ちは何気ないことで揺らぐでしょうが、好きだからこそ不安、不快に思うこともあるでしょう。
■イヤープラグさざなみ
確かにその通りだと思います。「好き」に伴う不快感はあっても「嫌い」から生じる心地よさはありませんね。
Day8
★YY12
青年:それなら確かにしっくりきます。なるほど、普段何気なく使ってる言葉でも振り返って考えるとより鮮明に見えてきますね。話し込んでしまってもうこんな時間ですし、一度頭を整理したいので今日のところは帰ります。ただ、まだ聞きたいこともあるので明日もまたお邪魔したいです。哲人:ええ、いつでも来てください。では、また明日。
Day9
■Tsubo
よろしくお願いされました。明日の昼くらいには文章を投下しようと思います
★Tsubo
第4章 自己嫌悪
…再び,青年が哲人の住む家の門を叩いた.どうやら,青年は学校にて成績や交友関係を他者とどうしても比較してしまい,そのために自信を失ってしまったようである.青年
先生,やはり僕はどうしても自分の成績や性格を他の人と比べてしまいます.例えば,Aというやつは顔も良く,勉強もできるし,運動をやらせてもそつなくこなす.Bは,勉強はできないけれども運動は抜群にできるし,何より表裏のない性格で人気が高い.Cは,勉強も運動もそれほどでもないけれど,でも歴史や科学といった自分の好きなことは誰よりも詳しい.それに比べて,僕は何も持ってないんです…哲人
ふむ.あなたは自分と他者とをどうしても比べてしまい,それが故に自らを否定-「自己嫌悪」しているというわけですね.外見,性格,勉学,交友…自分と他者を比較するのは君みたいな若い時分には仕方がないことです.しかしながら,「自らを否定」するだけではそこから何かは出てきにくい.むしろ,「自己嫌悪とは何か?」「なぜ自己嫌悪するのか?」というように,目の前の問題を見る視点を変えることが大切です.一旦,あなたが「何に自己嫌悪しているのか」考えてみましょう.青年
ええと,僕はAと自分を比べて,「外見,勉強」に関して自分が劣っていると感じていて,Bとは「運動,性格,交友関係」に関して自分を嫌悪していて,Cとは「対象への興味,知識量」について自分は到底及ばないと思っていました.哲人
そうだね.「自己嫌悪」とは大抵日常的な事柄について他人と比較し,例えば自分の性格や身体の特徴について具体的に嫌悪する行為のことです.
これは大体の人が一度は抱く感情であるから,自己嫌悪すること自体に特に負い目を感じる必要はない.ただし,これが拗れて「自分だから」嫌いだ,となると話は別ですが.あとは,「自己嫌悪」するときは「自分自身への期待に自分が応えられないとき」が多いです.
あなたは「期待を裏切ってしまった自分」が嫌いだと感じたことはないでしょうか?青年
あ,あります.思い出してみれば,「目標としていた点数が取れなかったとき」や,「周囲からの期待に応えられなかったとき」は自分ってなんてダメなやつなんだろうと思った時があります.哲人
前に,他人を「嫌悪」するときは「相手が自分の期待に応えてくれないこと」が原因になることが多いという話をしたのは覚えているかな.「自己嫌悪」も「自分に対する嫌悪」なのだから,「自分が自分の期待に応えられないとき」に感じるということだね.青年
なるほど,そう捉え直してみると自分の中の「自己嫌悪」がどういうものかわかってきた気がします.
1. 今まで「自己嫌悪」したことはありますか?差し支えのない範囲で嫌悪した自分の対象や,状況について教え頂ければ幸いです.
ある 11
@Tsubo, @ingen, @Takuma Kogawa, @YY 12, @チクシュルーブ隕石, @ゆーろっぷ, @Yuta, @chiffon cake, @Yujin, @Daiki, @蜆一朗
ない 6
@Tsubo, @Hiroto, @あんまん, @Naokimen, @イスツクエ, @ていりふびに
■Hiroto
Q:好きは快で、嫌いは不快?
A:そうとは言い切れないと思います。以前、嫌いな人を叩いて快楽を得ていたことがありました。客観的に見てそのときの自分の行動はよくないとは思うのですが、嫌う・攻撃するということが快楽に結びつく側面は否定できないと思います。この感覚に取り憑かれ、すぐ人を嫌い攻撃する人間というのは一定数いるのではないかと予想しています。Q:自己嫌悪したことがありますか?
A:ないです。劣等感(外的なものではない)をあまり感じてこなかったのと、何かを反省するときはその行動だけを反省するようにしていることが理由かなと思います。希死念慮的なものも、覚えたことがありません。これに関しては外的な環境にも感謝しなければならないと強く感じます。
■Tsubo
確かに失敗を鑑みる際,「失敗したこと」自体は気にせずその原因のみを分析することは自己肯定感を保つ上で重要だと思います。
また、失敗への対処はやはりある程度年を重ねて受験や仕事なので失敗を経験しないと身につかないと僕個人は思っているのですが、hirotoさんの失敗に対するそういった考え方を身につけたきっかけ等はあるのでしょうか?
■Hiroto
僕自身結構心配性的な側面があって、今思えばちっちゃいミスでも結構悩み詰めてしまっていました。なので、反省は人より多くしていたのかなと思います。そして、多い分毎回自分を責めていたらキリがないので、自分を責めることと行為を責めることを次第に分けていくようになっていった気がします。
■イヤープラグさざなみ
嫌いを叩いて得る快感、なるほど。自ら嫌いに突っ込んでいくケースがあるとは思いませんでした。
■チクシュルーブ隕石
自分の場合、基本的に何かを失敗してしまった時は最初に反省があり、その失敗が大きなものである(自分の中で大きな意味を持っている)時に自己嫌悪につながるような感覚があります。特に挫折と自己嫌悪はある程度セットでやってくるような気がします。
ただ、それを飛び越えたものとして劣等感・挫折感が一周回る事で相手への畏敬の念になるということもあるため、自己嫌悪の先に何があるのかということは自分自身よく分かっていません。
■Tsubo
単純な確認なのですが、「相手への畏敬~」とあることから隕石さんの言う「失敗」は受験や仕事でのやらかしといったものではなく、人間関係における何らかの失敗ということでしょうか?
■チクシュルーブ隕石
受験や仕事でのやらかしと人間関係についてのどちらもを含んでいます。例えば僕が何かの競技をやっていたとしたら、僕よりもはるかに上手い競技者(これはもちろん知り合いも含む)を見る際に本当に凄いなと思うような事が、学業・仕事においても起こるというニュアンスです。
Day10
★Tsubo
…
青年
そういえば,「“他人を嫌う“という自分も嫌いだと感じてしまった時もあります.」
自分では「嫌う」っていう感情を持つのがどうしてもイヤで,そういう感情を持ってしまっている自分が「嫌い」になるんですよね.哲人
それは,「他人から嫌われること,他人を嫌うことを恐れるあまり自分に“嫌い“を向けている」ということだね.これも自己嫌悪の一種だ.もちろん,他人を嫌うということに積極的な人はいないけど,他人を「嫌う」,「嫌われる」ということをたまには真正面から受け止めてみることも大切だよ.青年
先生,「自己嫌悪」と正面に向き合うためにも,もっと「自己嫌悪」について教えてください.哲人
それでは,「自己嫌悪」の例を色々挙げてみようか.まずは,「人間嫌い」.これは,「自己嫌悪の自覚が限りなくゼロに近い」自己嫌悪の一例だ.「これだから~~(なんらかの性質を持った他人)はダメなんだ」と嘆いていき,ついには他人一般を嫌うようになる.こういう人は結構いるんだけど,「自分が一番嫌いであり,二番目にその他大勢の他人が来る」というだいぶ捻くれてしまったタイプの人間嫌いもいる.こういう考え方は張り合いがなくなってしまって,他人との比較や競争を前提とされる社会生活をいとめなくなる可能性が高い.また,「自己嫌悪には他人を恐れるあまり反射的に自己を愛する,自分が傷つきたくないがゆえにあらかじめ 他人を傷つける」という自分を守るような「自己愛」が張り付いていることも多い.哲人
「自己嫌悪」に関して総じて言えるのは,他人を全て切り捨てるのではなく,半分だけ活かす,「一般的な他人」というよくわからない存在を嫌うのではなく個別具体的な他人を嫌う. ことが大切だということかな.長々と話してしまったけど,「自己嫌悪」について理解は深まったかな?青年
先生,ありがとうございます.これからもより自分の中の「自己嫌悪」に向き合えるよう頑張っていきたいと思います.
2. 「自己嫌悪」なる状態は避けるべきだと思いますか?
思う 6
@Tsubo, @chiffon cake, @蜆一朗, @Yujin, @イスツクエ, @Daiki
思わない 11
@Tsubo, @あんまん, @Hiroto, @チクシュルーブ隕石, @YY 12, @Naokimen, @Takuma Kogawa, @Yuta, @ゆーろっぷ, @匿名希望, @ていりふびに
その他(自由記述) 2
@Tsubo, @Daiki
■Daiki
自分を嫌悪することについてしか考えられなくなったり、動けなくなる人は「自己嫌悪」の状態は避ける方が良いと思いました。私自身、自己嫌悪すると何も出来なくなってしまうので、考えることを避けています。
Day11
■Tsubo
(日付は既に変わってますが)本日は僕からの投稿はありません。9日からは@コバ さんの担当となります。よろしくお願いします。もちろん僕の分の質問に対する回答は適宜していきます。
Day12,13
■コバ
おはようございます。
昨日は文章投下できずすいません。
今晩より文章投下致します。
★コバ
第5章 <選ぶ>ということ
青年は哲人のもとを訪れていた。「人を嫌う」ということについて考えてきた思考の旅も終わりも近いようである。
青年:先生、これまで先生と一緒に「人を嫌う」ということについて思考、哲学する中で私は一つの結論に達しました。その結論を先生に聞いていただきたく本日はお伺い致しました。
哲人:初めて私の家を訪れた時に話していた「迷路の出口」が見つかったようにお見受けします。それでは、どのような結論に達したのか聞かせてください。
青年:私は最初先生のもとを伺った際、先生に「人を嫌う」ということについての答えを教えていただこうと考えていました。しかしそこを迷路の出口、即ち「ゴール」と設定していたことがそもそもの間違いだったのです。
先生とこれまで「人を嫌う」ということについて共に思考する中で、そもそものスタート地点、つまり「哲学」とは何かを定義しました。定義する前、私は「哲学」とは「哲学者から知識を得ること」だと考えていました。しかし、どこまで行っても「哲学者の思考」は「私の思考」ではないのです。そして、この「人を嫌うということ」が私の問題である限り、私の思考、つまり「私の哲学」をもってこの私自身の問題に結局は立ち向かわなければならないということに気付いたのです。
哲人:そうですね。ニーチェの著書を読んで身に付くのはニーチェの思想です。もちろんそこからアナロジー思考を用いて様々な事象に対して己を器として思考することができれば、思考の幅は大きく広がるでしょう。しかし先人の哲学者達の思考をコレクションする、それ自体が自己目的化してしまう恐れもあります。
いえ、その地点が本人にとって心地良いのであれば、あるいは社会に価値をもたらしているのであれば、私がとやかく言うことではないのでしょう。
いずれにしても、あなたはその先に進むと決めたのですね。
青年:はい。そして、結局私自身も私が嫌っていた「人間である」という結論に達しました。人間として生まれることを私自身が選んでこの世界に生まれてきたわけではありません。
私が「人が嫌い」であるというこの状況も自ら望んだわけではありません。
でも、私はそれを受け入れようと思います。
「人を嫌うということを受け入れてこれからも生きていく」ということは「自分で選んで」生きていきたいのです。
そしてこの「選ぶ」という地点に辿り着かせてくれた「哲学」という営み、そして先生には感謝しています。
先生:いえ、私は大したことはしていません。何はともあれ、ゴールに辿り着けたようで何よりです。また迷った時はいつでもいらしてください。
青年:ありがとうございます。それでは、また。
■コバ
以上、今回の哲学部WSの物語「人を<嫌う>ということ」でした。
以下、今回のWS最後のアンケートとなります。
「選ぶ」ということについて深く思考したことがありますか?
はい 2
@chiffon cake, @コバ
いいえ 8
@Hiroto, @Daiki, @イスツクエ, @チクシュルーブ隕石, @ていりふびに, @Naokimen, @ゆーろっぷ, @Yujin
可能であればその詳細もお教えください。
また今回のWS全体に関する、気付いたこと、考えたこと、語りたいこと、WSの司会者に問いかけたいことや感想等も大歓迎です。
Day14
■蜆一朗
教育研や未来部の活動でバタバタしておりました。遅くなってしまい申し訳ありません。今答えられる3つの質問に順に答えていきたいと思います。1. 今まで「自己嫌悪」したことはありますか?差し支えのない範囲で嫌悪した自分の対象や,状況について教え頂ければ幸いです.
自己嫌悪したことがあるどころか、基本的には人生をずっと通じて自分のことを好きだと思ったことはありませんT^T 他者と比べて優越感を感じることもないと思いますし、基本的には劣等感の塊だと思っています。他の人が持っていて自分にはないものに目が行くことも多いですが、何かができないという事実に「自分ならできる/たはずなのに」という期待が乗っからないことには劣等感は生じない気もしています。その意味では、青年が言うように「自分自身への期待に自分が答えられない」という類のストレスがすなわち自己嫌悪なのかなと思います。最近強く感じているのは「実力にまったく見合わない学歴に対する嫌悪感」なのですが、ここには「博士課程に進学させてよい」という先生方の評価への及ばなさ(申し訳なさ)も含まれている気もしています。2. 「自己嫌悪」なる状態は避けるべきだと思いますか?
避けようとしても避けきれずにここまで来ましたT^T そのたびに落ち込んで作業効率やメンタルに悲しい影響を与えるので避けられるものなら避けたいのですが、自己嫌悪を感じなくなるというのは、僕の場合には自分自身への期待がなくなってしまうことを意味するのかなと思います。生産的に生きていく上では避けたくても避けられないものだと受け入れる必要があるように感じています。3.「選ぶ」ということについて深く思考したことがありますか?
今までの人生では、進路を積極的に(ポジティブな心持ちで)選んできたという感覚がありません。「高校・大学・大学院に進む」「就職する」という重大な意味を持つ行為に際しても、今日の晩に何を食べるかという軽い行為でも、そこにある選択肢の中でリスクやストレスが最も低いものを選んできたという感じでしょうか。これが僕に特別なものであるという意識はなくみんなそんなものなのだと思いますが、少なくとも「やりたいことをやる」という感覚を覚えたことは一度もなく、それをやることにとてつもなく大きな抵抗感があります。そこには「やりたい」という気持ちへの信頼のなさなどいろんな影響があると思いますし、大学に入ったころから「やりたいこととは何だろう」「進路選択をどうすればどうすればいいのだろう」とかいうことについてずっと考えてきましたが、いまだに答えは出ていません。
■コバ
「やりたいことをやる」の「やりたいこと」が社会通念上の一般的な進路と合致したことは私も今まで一度もありません。
また、私の場合は「やりたいこと」となった時にそもそも今生きていること自体が「やりたいこと」なのかというその地点が甚だ疑問です。
そこを無視してただ「点としてのやりたいこと」を無理やり持ってくることは私には難しいようです。「選ぶ」ということについて「点」ではなく「線」で考えるとまた違った視点で考えることができると思います。
■コバ
それでは、今回の哲学部WSはここまでとさせていただきます。今回の物語が皆さんの何かを考えるきっかけになったり、あるいは物語を楽しんでいただけたのであれば部員一同嬉しく思います。
またアンケートへの参加、回答ありがとうございました。
返信できていない方へは事後スレッドで返信させていただきます。それでは、また次のWSでお会いしましょう。
2週間ありがとうございました。
以上、哲学部WS『人を<嫌う>ということ』でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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