蚕は「かわいそう」なのか?
あくまで途中からだけど、養蚕家さんから届いた幼虫たちに餌をやって、羽化させる試み。
休職中のいまが私の「大人の夏休み」だとしたら、言うなればこれは自由研究みたいなものかもしれない。
今朝、ついにそのうち1頭(蚕は1匹ではなく1頭と呼ぶらしい)が成虫になった。
蚕に憧れを抱くようになったのはなぜだろう?
“お蚕様”という文化を知った時か、ゴジラvsモスラを映画館で観た時か、
はたまた、蟲師の「うろさま」のお話かもしれない。
とにかく神秘的なイメージに在った虫。
育ててみたいと思うようになったのは、ある種の自然な成り行きだった。
蚕にとっての適温は25度程。温かくなるのを待って飼育キットを購入したら暑くなりすぎてしまった。
おかげさまでエアコンを四六時中つけっぱなしにできたのは結果として良かったのかもしれない。
感覚鈍麻のある私は、セルフネグレクトになりやすい場面が多々ある。
室温はそんな代表的なひとつだ。
蚕さまのため、としてエアコンを終日自動運転。
猛暑を贅沢に心地よく過ごしている。
さて、話を元に戻すが、蚕を飼うことにして、パートナーから「蚕はかわいそう」と言われたことについて話したい。
「かわいそう」?
その言葉に私はなぜか強烈な違和感を感じてしまった。
しかし、ネットの世界を見渡してみたり、他人と話してみるとそんな見方は多いようだ。
確かに、蚕は養蚕として日本で古くから家畜として扱われてきた。
数千年にわたり品種改良され(しかしその方法は未だに謎に包まれている)、現在唯一の自然回帰能力を持たない家畜となった。
自然回帰能力を持たない。
つまり、蚕を自然に放しても野良にはならないのだ。
他の豚や牛、犬や猫といった家畜化された動物たちは少し経つと野生化するらしいのだけど、蚕はそれすらできないらしい。
その意味が育ててみてよくわかった。
子どもの頃観察した青虫たちとは一線を画して、異なる。
まず、全然動かない。物に捕まる力が弱い。
飼育箱は蓋を開けっぱなしでも、逃げることはまずない。
これは確かに自然の中では鳥や他の大きな虫たちのよい餌食になってしまうだろう。
そしてなにより驚くべきは人が世話をする前提で習性があることである。
例としては、餌を探して動かない。成虫は飛ぶことができない。特に驚いたのは、自分がつくった繭を自力で出てこれないことがある、ということ。
なので、確実に羽化させるには蛹化した時点で繭から取り出してあげることが推奨されている。
また、交尾をした後は人間が引き離してあげないといけないというのも驚いた。
ここから、「割愛」という言葉が生まれたらしい(というのは雑学として覚えた)。
とにかく、人間のお世話ありきで生きている生き物なのだ。
子どもの頃、あまり触らないように、と虫たちの観察を重ねて学習した身としては常識外というか、不自然というか…
しかし、蚕は人間の存在に慣れている。というより人間の手を借りないと生きていけないものたちなのだから、むしろ人間の存在がその生態に組み込まれているわけだ。
そんな蚕たちを可哀想、と表現するのはきっとその寿命の短さと、繭をとるために殺されてしまうことから来るのだろう。
しかしその表現は甚く私に違和感を抱かせた。
いつでもかわいそう、と憐憫の目を向ける側は恵まれているほうだ。虐待サバイバーとして発言を憚れる時はいつだって哀れみを受けたくないと感じる時、同情をされることでまるで自分が下に思えてしまうからだった。
そこで思う。
人間は本当に上側なのか?と。
違和感の原因を、刺さった小骨を探すように思考を巡らせ至ったのは、憐憫の目を向けるには「人間が上」という意味合いがあるように思われたからだ。
でもどうだろう?
蚕はひとつの種としてあくまで生き残るために、人間を利用した気がしてならないのだ。
だから餌も羽化も交尾も人間に「手助けさせて」、今まで存続した。
自然やその他の動物より人間が存在が上で、コントロールできるだなんて、大層傲慢な考え方ではないか。
飼い猫と野良猫、どっちがかわいそうなのか?の話に似ている気がする。
野良猫には保護の話を出すのに、人はなぜ蚕には憐れみの目を向けるのだろう?
蚕は人間という存在に慣れている。
今こうして文章を書いている私の前でも、蚕蛾になった彼はじっと箱の中のティッシュに捕まっている。
撫でるとたまに毛繕いする。
羽を震わせるのも見た。
でも逃げようとはしない。
すごくすごくお行儀よく、ちょこんとそこに留まっている。
その姿はなるほど、お蚕様と呼ばれて信仰されたのにも頷ける。
儚げで、神秘的で、優雅だ。
たぶん私たちは、この素敵な生き物に利用されてきた。
そんなふうに考えたくなってしまうのは私だけだろうか。