読経を続ける
般若心経2年半、観音経は約9ヶ月を
毎日唱えることを続けて
いろいろと気が
ついてきたことがあります。
もう読経なしでは
過ごせない、という状態に
なってきました。
それと、確かに思うのは、
日本人にとっては
読経は、何かがいい、ということ。
意味はわからなくていい。
むしろ、意味を考えないでただ唱える。
唱える先に何かあるのではないか、と思えてきました。
ただ唱えるだけ、
回数は多いとなお良い。
読経には何かがある、
って思います。
以前、般若心経がどんな意味なのか、
本を読んだこともあります。
しかし、意味を理解したつもりで読経しても、今ひとつ内容が
わかったようでわからない。
意味を考え、感じながら読むと
無理がある感じがしました。
文字通りの意味が想像できても、
本当の意味って、
私は実感できない。
意味はわかるようで、全くわかる気がしない。毎日の読経でこれなら、
まだまだ道は長いのかもしれません。
そのため、「どうせわかりっこない」、
と思うようにしたら気が楽になった。
なにしろ、1000年以上も続いている、言葉/文章です。
現代語訳のようなものをみて、わかった気になっているだけ、
と思えてきました。
まだ甘い、ってことだと思う。
だったら、もう開き直って、
むしろ何も考えていない状態で
読む方がいいと思いました。
読経、っていえば、
お坊さんが仏事のときに読むものだと
思われがちですが、
決してそうではない。
もっと日常で生活の中に
あってもいいと思う。
昭和初期、戦前の古い本では、
朝夕に読経が聞こえてくる、というシーンに何度かでくわす。
それに、近所の人は
般若心経をはじめ、
延命十句観音経、
その他お経、真言等を手本なしで
暗誦している。
暗誦がすごいのではなく、
暗誦するくらい読み続けている、
そんな日々を続けていたことに
何か良さを感じていました。
しかし、その子、孫には
続いていないようです。
読経を長年続けてきている人の
共通点に思えるのは、
何かと顔色がいい。
あるいは、持病はあるかもしれないけど、感じさせないような人
に思える。
個人的なことですが、
読経をつづけていて、1-2年経ったころ、
明らかに睡眠の質が変わってきたと
思いました。
理由は呼吸する力が、ついてきたことが最も大きいと思う。
呼吸、って考えてみれば、
ずっとし続けている。
酸素を吸って生きている。
当たり前といえば、それまでですが、
食事が重要っていうなら、
食事よりもずっと多いのは
呼吸。
呼吸って、もっとも
大事なことじゃないかな、って
考えるようになりました。
ご飯なら、多少食べなくても
大丈夫だけど、
呼吸はそうではない。
でも、意識して深呼吸などしても、
毎日続くとは限らない。
読経はどうかというと、
とにかく長い文章を黙々と読み上げる。
上手い下手、歌のおんちなど
関係がない。
誰でも、いや日本人は特に読める、読みやすい音だと思う。
読み続ける、そのとき、
息は吐き続けている。
そして、息が限界に近づいたら、
空気を吸う。
息を吐き切って、吸う、呼吸の理想とも言えることが、
読経だ自然にできているようです。
読経は深呼吸ができ、
気がつかないうちに
呼吸を整えている。
読経で落ち着く理由の一つは、
深呼吸ができているからだとも言える。
毎日続ければ、呼吸の練習か訓練にも
なっているわけです。
この時に肺や腹筋、
あるいは丹田あたりも
鍛えられている。
読経を始めてから、
読経するための腹筋か丹田のあたり、
ほほや口あたりの筋肉は
ついてきたと思う。
音読が脳にいい、なんて
言われていますが、
読経なら、呼吸も脳にも何かいいと
思える。
呼吸の筋肉トレーニングにも
なっている。
運動がいい、食事が大事、水が大事、睡眠時間は7時間以上、
その他、筋肉トレーニングで体力をつけよう、などいろんな
健康情報などがあります。
ただ、今の私なら、呼吸を
一番にもってきても
いいくらいだと思う。
なにせ呼吸の力がついてきたと
感じてから、
体が軽い。
年齢とともに体力は衰える、
というのは、
事実なようだけど、どうなんだろう、
とさえ思う時がある。
ある程度動いたら、多少の疲れが出るはずですが、そのある程度の
幅が増えた。
つまり疲れるのに時間が
かかるわけです。
以前と今を比べたら、
体力が大きく劣っているとは
思えない。
それともう一つ、はっきりとは
わからないけど、
読経を続けていると、
どこか、心が落ち着く。
集中してくる。
特に、心ここにあらずの状態、
焦っている時には、
即効で効果がある薬の
ような気がします。
しかも副作用なし。
意味わからず、考えず、
ただ音読しているだけです。
般若心経、観音経、
共通していることですが、
文章は詰まらずに
読めるように作られていると思う。
もちろん、ある程度の慣れや
毎日読むから読めるようになる、
というのはある。
ただ、お経の文章は
日本語の音を
うまくつないで
作られたようにも思える。
読経の回数を重ねるにつれ、
顔や口、また腹筋、などの色んな筋肉がついてきたと思う。
お経を読むための
様々な筋肉です。
ただ振り返ってみると、
毎回の読経でどれだけちゃんと読めているかは疑問です。
雑念が入る、
姿勢が乱れる、
視線よりも早く読んでしまっている、
ちゃんと集中できているか、
最高の心境でできているか、
無心か、
気持ちがこもっているか、
その他、振り返れば、
課題や反省だらけです。
一日に何回唱えようが、
まだまだ甘い、ってことですね。
全くの素人ながら般若心経をはじめ、
途中から観音経なども加わって
続けてきて、
呼吸が深くなった、
何か気分を良くするような感じがする、
といった曖昧なことしか
今はわかりません。
今は般若心経は一日最低30回以上、
観音経全文を三回、
手持ちの神社の冊子に
書かれていた
祓詞(はらえことば)、
その他不動明王真言など、ついでに
読経していますが、
お坊さんの読経の量に比べれば、
足元にも及ばない。
もちろん意味は知らないし、
調べてもいない。
神道も仏教も混ざってるし、
意味がわからない、って普通に考えればむちゃくちゃかもしれない。
わからなくても
形だけ続ける、そんな程度でも
良いかと思います。
それに毎回、理想的な読み方で
読めているわけでもない。
たぶん、もっと年月がたてば、
少しは良くなる、
あるいは、意味を考える余裕か
考える土壌、前提のような
ものができてくるのかもしれない。
今はまだ読経の素人、
いつでも考えずに
朝昼晩の読経をしても、
その先には何かゴールが
あるわけでもない。
とにかく、意味を考えずに
読み続けています。
意味を理解して、読むといい、という意見があるかもしれないけど、
私はそうは思えない。
意味がわからないけど、いつか、
何か兆しみたいなものが
でてくるのかもしれない。
唱える実践に何かあるのかも、
などと今は思います。
意味がわからず、
続ける意味はあるのか、
って思う人いるかもしれない。
ただこれには一つ、
思い当たることがある。
戦中か戦前か忘れましたが、
ドイツの刃物メーカーの人が
来日し、日本刀の工房を見学した。
鉄をなん度も叩いて
伸ばす日本刀制作の工程に
秘密がある、
と説明を受けたという。
その時はよくわからず、日本刀を多々
購入してドイツ本国に
持ち帰ったという。
刀を細かく切って中の物質を調べても、
特別な物質はなかった。
日本刀が強く、
また刀の切れ味とその持続する謎が
わからなかったらしい。
鉄を果てしなく長い時間、
ひたすら叩いて伸ばす行為の
意味が納得できなかったともいう。
意味がわからないから、
同じことができなかった、
とも言える。
効率や意味を考えると
できないのかもしれません。
科学的根拠にばかりこだわる人、
効率の良さを追い求める人には
理解し難いのかもしれない。
ただ、理由はないけど、何かがある、
ということはあると思う。
日本人に根付いた何かがあったから、
鉄を果てしなく叩いて伸ばす。
一見して意味のないようなことが
できるのかもしれない。
仏教か読経か、何か体に根付いた思いが
背景か根本にあるように
思えてならない。
根性とはまた
違うことだと思う。
般若心経は仏教の教えを短くまとめた
ものだそうですが、
文の意味だけでは伝わらない、
何かがある。
読み続けて何か変わる。
ただ文章は日本語で読みやすい。
読みやすいんだから、
毎日読んでいきましょう、
って気楽に考えると
いいと思います。
意味は文字を読んだだけでは、
理解できない。
続けていくと何かがいい。
今の私にはそう言えます。
家族の全員、少なくとも誰かが
般若心経を
読経して生活していたら、
あの家庭内暴力殺人は防げた、
とある住職さんの話が
本に書かれていました。
これは説明できないですが、
私は本当にそうだと思います。
あえていうなら、気持ちが落ち着いて
冷静になれていた、
高まった瞬間の気持ちを抑える
ことができた、
怒りか焦りの呼吸は短いだろうから、
読経していたら、そんな呼吸ではない。
その他、うまく説明できないけど、
読経で性格か考え方が変わってくる、
そんなものかもしれません。
たとえば、高速道路に入る前に
読経する。それで事故や
あおり運転は減ると思う。
理由は説明できないけど、
なぜかわかる。
お経の意味は考えずに、読み続ける。
果てしなく続けていく。
いつか、あるいは気が付かないだけで、
日常に何か良いものが、
期待しなくて出てくる。
呼吸、健康には間違いなく良い。
(健康問題の一つが解決するなら、
これだけで十分価値があると思う。)
祈りのような、何か落ち着きか
優しさが出てくる時もある。
ということを
今は感じています。
考えるとわからなくなるから、
そのまま読経は続けていこうと思う。
ある程度の回数や年月が経って、
ふと意味を聞く、読む、考えてみる。
そしてまた無心で
読経していく。
そんな繰り返しが大事なんじゃないだろうか、って思う。
読経はもう完全に毎日する、
まさに習慣となりましたが、
ゴールのないものかもしれません。
ゴールのないのに進み続ける、って
おかしく見えるかもしれないけど、
むしろ常に一緒、
呼吸みたいなものかもしれない。
ただ、読経には何か良いものがある、
これだけは事実です。
ということを誰かに語っても、
実践者はゼロです。
朝昼晩のそれぞれ10回だけでも
読経すると、個人差あれど、
間違いなく何か変わってきます。
呼吸といえば、瞑想や丹田呼吸、ヨガ、太極拳、など色々あるけど、
どれも簡単には思えない。
できたら、あるいは、
好きになって続けられたら
どれも良いと思う。
ただ、読経は、日本人なら
やれば続けれれそうに
思える。飽きっぽい性格で
あったとしてもです。
私はあるきっかけがあったこととと、
京都三十三間堂の
「観音勤行儀」という冊子を
持っていました。
随分前ですが、三十三間堂によく
通っていました。
般若心経、観音経全文
(短いのもあるようですが、
観音経は全文の方がずっと
良いと思います。)
観音勤行儀は、読みも書いてあって、字は大きい。
でも冊子は小型。
使いやすくて、良い冊子です。
写経など、形から入るのも
ありだと思います。
意味がわからないなら、
宗派など関係なく、
どんなお経でも
良いんじゃないかと思う。
ただ般若心経は、仏教教えの
濃縮版。読経の先に見えてくるかもしれない何かが背景にある。
とにかく読経をしてみましょう、って
お坊さんが語れば説得力があって
良いかもしれない。
でも自家用野菜作りなどしている
私のような一般の人間が
良さを体感しているわけです。
読経は奥深しです。
わからないけど、
きっと良いものがあるのは
間違いない。