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変わらない日常に生きる最強論争と最高の人生とは

僕は特別、漫画やアニメが好きな訳ではない。
今まで見てきた訳でもない。
けれど、僕にも好きな漫画やアニメがある。

その中に「範馬刃牙」という漫画の主人公がいる。

刃牙シリーズはグラップラー刃牙から始まって、今ではスピンオフも多い。

刃牙本編も現在で「バキ」「範馬刃牙」「刃牙道」「バキ道」「刃牙らへん」まで展開している。

内容は格闘マンガだが、登場人物たちが、各自各々の正義、主義主張、最強を目指している。

その中で主人公の範馬刃牙だけは、「世界最強と言われ続ける自分の父親より強くなりたい」という事だけを目標にし、成長し強くなる、というのが簡単な説明。

そしてこの物語の主人公、範馬刃牙も作中に負ける事がある。
負けて、死の淵に立った時もある。

刃牙自身は、登場時から既に格闘技団体の絶対王者だった。
刃牙の試合や戦いは、ほとんどが刃牙の圧倒的強さで瞬殺のように決まるか、主人公だからと言って負けない事もない。刃牙が簡単に相手を倒すか、逆に、刃牙があっけなく負けてしまう事だってある。

そして、負けた後の刃牙は大抵
「負けたのか」
という一言二言で自分の中で整理をつけているように僕には見える。

負けたから絶望、倒されたから終わりのような、勝ち負けイコール死にはならないらしい。

範馬刃牙の話は現実の格闘技とは当然違うけど、確かにこれは漫画の世界ではあるけど、僕は漫画の範馬刃牙から大事なことを学んでいる。

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刃牙は勝った負けたで語らない。

それは刃牙は「親父を倒すことが最大目標であって、それ以外の事は大したことでは無い」と捉えているからだ。

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忘れていたから読み返した。

最初の頃
「男子は、誰でも一生のうち一回は地上最強ってのを夢見る」
と語ってるシーンがあった。

けど、刃牙自身、最強になりたい訳じゃないという答えの台詞があります。

「親父がもし地上最弱の生物なら 俺は二番目に弱い生物でいい」


刃牙は最強になることが目的ではなく、超えるべき存在がたまたま最強である父親であるから強くならなければいけない。もしも自分の父親が地上最弱ならば自分は父親よりも少し強ければどうでもいい。
そういう答えを出しています。

登場人物たちが、生きるか死ぬか命懸けの真剣勝負をしている中。
ひとり、親父を超えたいだけ。

ちなみに今では、その範馬裕次郎を一度倒している。

皆それぞれの夢や目標があった方が良いと僕は思う。

そしてそれが、お金が欲しい、や、あれがしたい、これもしたい。
そういう事であれば、そういう欲であれば、僕は相手をしない。

人間はエゴを出していたらきりが無い。

キリがないと言うより、その思い描いた答えでは、自分の夢や理想には辿り着けない。それでは、現実の自分、は思い描く自分からは遠くなる。
それを僕は解かっていなかった。

何が大事で何が大切か、決めて、そこに向かって努力する。

その努力も間違った仕方、間違った方向で頑張っても成功はしない。
意味は無いとは言わないけれど、それでは本人が一番辛いだけだ。

最短で最速でカッコよく成功しようと思うなら餓鬼だ。
経験したことが無いから幼稚で未熟な考え方で理想や想像を膨らませて、考えたような気になっているのだと思う。

遠回りしてもいいから、と想うなら、足元も自分自身にも気をつけないといけないのだと思った。

時間は待ってはくれない、有限だ。

限られた時間、限られた人生の力を割いて生きていくのだ。
そんな戯言のような甘ったれた言葉で、のうのうと生きていけば、間に合わない。辿り着く事も無い。

お金が欲しい事が悪い事でも一切なく、本当にそれが自分の人生を懸けて、自分の中で、一番の夢や最大の目標なのか、それが生き方(生き様)なのかと自分自身に問うた結果が今の僕だ。

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僕が「死にたい」「辛い」と叫ぶことを芸が無い、と言う事について、この漫画の中に範馬刃牙の兄であるジャック範馬の台詞でこう言うのがある。

ジャックハンマーは靱帯改造や薬物ステロイド全てのリスクと命を削って最強になろうとしている人物。そのセリフに

「長生きしようなどと最初っから考えちゃいないッッッ 最強の肉体と死を引き替えにする覚悟は既にできてるッッッ」


というのがあった。

ジャックハンマーはこういう精神論で、実際に最強に辿り着こうとしていて、今現在はまだ死んではいない。

こういう言葉や感覚を、平気で使っている人が多い。
それは誰しもが通る道なのだと分かっている。

そういう自分の不幸や人生エピソードを、それが才能みたいに語る人や、才能の所以みたいに捉えている人がいるけど、辛いのは生きている人間、世界世の中全員が辛いです。

度合いはあれど楽に生きて楽に死ねる人はそういません。
だから、不幸を語るだけでは芸が無いと言っているのです。

過去を大事に抱えている人がいる。

けど、今を生きている人たちに何かを伝えたい、誰かを感動させたり、伝えたい思いや気持ちは、今の自分が語るのだから、今の自分で勝負するしか無い、今の自分を売るしかないのです。

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全員がそうだとは言わない。

アーティストが聖人君子であるなんて、今までも思った事はない。

楽して成功する人もいるし、それを才能と呼ぶなら、自分にも才能があると思い込んで行ける所まで行って、老い落ちぶれて死んでいくだけだと思う。

そういう人が今の高齢者の中にも大勢いると思う。

時代が変わっても登場人物が違うだけで、やっている事はそう変わらない。

だから、そこに気が付いて、自分が見えていないその更に先にある答えに向かって生きていくのが人間だ。

人間らしいとは人間は考え続けることが出来る。それが出来る可能性が人間という生物にはあるからにんっげんなのだ。だから僕は考えない、考えることが出来ない奴の事は同じ人間だとは思わないように今はしている。

その事に気付く必要があるのだ。そう僕は思う。

先人と同じことをするだけでは変わらない。
変わらない事の正しさや美学はある。けれど、それだけで満足するのは僕は個人的に好きではない。

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何度も言う。自戒にも他人にも込めて、自分を大切にして生きていく為に。

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楽して成功する人もいるし、それを才能と呼ぶなら、自分にも才能があると思い込んで行ける所まで行って、老い落ちぶれて死んでいくだけだと思う。
それでも僕には関係が無いからそれでいいと思う。勝手にやればいい。

僕に影響が無ければの範囲なら自由に気に入るようにすればいい。僕には関係ない。そこだけははっきりと死守ではなく、線引きしておく。

僕もそうしている。

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死にたいだの、辛いだのと叫び続けているだけの芸のどこに才があると思っているのだろうか。

子供は、自分の世界が全てだから、単純に、分からないだけ。
知らないだけだ。

言葉の重みや責任感が生まれるのは、大人になり社会人になり一人前の人間としての力を持った上で「才能」があるからだ。

「命懸けだ」の「人生かけている」だの言いながら、私の全てと言うのは事由だけど、すべてというなら、あなたの存在価値は小さすぎて買う価値が無いと、自称の人たちのエゴに付き合わない時は、今は言う。

結局は、僕も大人になって解かった事(考えている事)だけど。

生活保護や精神手帳で生活をして、これが自分の人生だ、と納得なり受け入れて、そこになれて馴染んでいる人は、僕から見て存在価値は少ない。

後は親や、遺産、財産。
誰か他人から、金の面倒や、支援をしてもらって生活している人間が創作する作品に、何の説得力や魅力や価値があると思っているのだろうか。

誰かに評価されたくて創作活動をしている訳では無いというなら、まず人間として、大人として嫌なら、社会人として、社会に生きている人間としてあるべき自分を形成してからだと思う。

社会にとっては害かどうかの判断は社会が決める事だから必要以上には言わないけど、人間は自分も含め、自分の事、自分が好きな事だけで人生や価値観を決めようとする。だから視野は自然と狭くなるのだ。

だから幼稚、未熟と言っても年齢では無いのだ。
いい歳した子供も僕みたいにいるし、他人の事はみんな自分を良く見せたいし自分を上に置きたいから否定したがるものだけど、大人の定義とは明確に言えるものではない。

これも遺伝なのだと思う。そして、そこから出るか出ないかも答えは僕には見えている。

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環境要因だけ、それを否定しても何も始まらない。
環境を決める為に社会で経験をするという事が自己責任を果たす、自分の言動に責任を負えるようになったと言えるのだと思う。

だから、環境要因だけ、それを言い始めるとキリが無い。
そこで立ち止まってしまうと、どんな理由があっても、
何も始まらないという事も理解しておかないと大変、悪い事になる。

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いつの時代でも新しいものが生まれては消え、流行るとこういう事が起きては忘れられて、それの繰り返し。またそれに慣れて、またリバイバルして、また廃れて、それでもそれが好きな人もいて。

その繰り返しだと思う。

けど、いつの時代もそう。

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子供や餓鬼、情報と言うより知識が無い老害は、総じて未熟未成熟な人間。

生きていけるのか野垂れ死ぬのか僕には無いけど、今の時代はそう簡単に死ねないようになっているから、死にたい人は死ねないと言うより、死ぬ程の苦痛や環境が減っているから延々地獄絵図みたいな生活や人生をその人は送るのだ。

見ている世界が小さければ小さいほど、物事や自分がしている事の正当性(整合性)が出来ない。

経験が無い無知が故、選択肢が無いから、判断を間違える。

人間が、人間を感動させることを、甘く見積もるな。

自分の才能や価値や現実を見誤るな。
勘違いし履き違えると数年後に地獄を見る。
けれど、きっとその地獄に辿り着いた頃。

君も、そこに馴染んでいる。
それに慣れてしまっている。
自分のその姿や言動に違和感や、自身に絶望すらしなくなる。

言い訳も言い訳にすら感じず。
何を言われても平気になる所まで行けば完成だ。

誰も死ねとは言っても思ってもいない。
僕にとってどうでもいい人達、他人は関係ない。

僕らは、どう生きるのかを考えながら生きると、楽になれる事を伝えたいだけ。


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年末は僕にとって普通の日々と何も変わらなかった。

実際に昨日は、日付が変わって(年越しして)一時頃になっていた。
気が付いたら寝ていた。

疲れたと言えるほど忙しい訳でもない。
金を稼いでいる訳でもない。
することがあり過ぎて必死で頑張っている訳でも無い。

こういう言い方をしているのは、僕自身は「頑張っている」「やっている」と思っているけど、他人は、そうやって誰も評価もしないし、他人は他人の事などどうでもいいから見てもくれない。

だから言い訳のような言葉を置いただけ。

僕は僕なりにやるべき事はやった、やっている。

言い訳も逃げる事もせずに確実にしているんだという事だけ。
でも、それも自分だけが解っていればいい事なのだろう。
自分で納得なり、気が済めばいいだけ、それだけの話。

大事なのは、他人の話ではない。
自分が夢を実行して実現できたかだけの話。

誰に何と言われようが、誰と何があろうが、他人からの評価や社会からの見られ方の話で自分の人生を決める、決められるのではなく。

自分が決めた目標の為の道を一つずつ選んで決める。

それこそ広く深く高い視野で、未来に向けて落ち着いて今を見る。
数年後なんて想像、妄想したって頑張れない。

僕の先を行く人は、表面的な解釈、短絡的な視野の範囲で、物事を考えていないのだと思う。

一喜一憂、勝った負けた、白か黒かのような極論の感情。
欲に飲み込まれないように気をつけている。

だから、今の僕は安易に進路を間違えないのだと僕は想っている。
そして僕が息を止めて考えて待っている間、他人は好き勝手に気のままに堂々と生きていく。

僕はそいつらを狩って。

大切の人の為のお金や時間を取り返す。


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