どうなってもいい、最後は変わらない。
人間って、ストレスがあると、イライラしたり不安になったり、我を忘れる、ようになると言われてますよね。
そうだと思う。
僕は言葉にしないのではなく、書いてない、どこにも記録していない思いや考えている事が当然ある。
それがストレスや負荷になっている。
一日中、毎日、ずっとその負の連鎖。
言葉にすればいいと言うけれど、キリがない。
言葉にするのも相当しんどい。
考えるのも疲れる。
考えて答えが出ても、不安と気力(気持ち)が続かない。
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僕はイライラしている。
さっき社用車の中に、先日のお客さんのところを回るように買った手土産を置き忘れていて、その事について
「高い買い物して。この高いパン、どうしたん、もったいないから食べようとしたら卵サンドやし危ないと思ったから。レシート見たら2800円って書いてるから高いパンで勿体ない」
というので、僕は殴り殺してやろうかと思った。
この怒りを少し書ける気力分だけ書く。
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そのパンは、今回亡くなった方のご遺族への品、そこの大家さん、その後会う予定だった友達、その後の内見にくる友達、親せきのレイコさん、あと自分の昼飯、として買った。
だから2800円になったという、手土産と言うには雑なものだ。
僕の親は、僕の私物をあさる癖が昔はあった。
20代の頃、普通に僕が目が覚めると、僕の鞄をあさる親がいて、僕は枕もとのジャンプを投げたような記憶がある。
母親の嫁入りダンスの一部を、怒り狂い僕が蹴り破った事を覚えている。
どこまでいっても、我が子のオナニーを覗き見る
キチガイ、ド変態、人格異常者が僕の母親だ。
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僕は、さっきその件で言い争いになった時に、何か自分でも苦しくなるくらいの怒りが湧いた。
それは、お金の無駄使いを指摘されているように感じているからだ。
僕がお金を稼いでいない。会社に入れるお金が今は少ない。
去年と比べるとと言うと、去年は家族以外(自分以外)の人間一人分の生活費を捻出するために、必死と言うより切れるカードは全部切っていたからだ。
そのお金を一旦会社に入れて、僕とその子の生活を維持して守っていたからだ。
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だから今、僕は会社に入れる金が圧倒的に少ない。
本来の生活に戻ったのだから、自分が他の仕事で得た金を会社に入れると、僕は生活が出来ないとは言えないが、自分の好きなようには出来ない。
そこらの事もあって、僕は心が苦しい部分と、安心できる瞬間が一日を通してない事を今ここで伝えたい。
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機能不全家庭や毒親問題でよくある事だと思う。
家という、本来は自分の居場所や安心できる場所が、機能不全や族や毒親問題から自分の安心できることが無い。安心できる自分の家や居場所がない。
それが不安障害や、愛着障害のように言われている事だと思う。
少なからず僕は、過緊張で、異常に体力の消耗が激しい。
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・・
ちなみに今回、僕は、
彼女の行動、SNSや新居、大阪の仕事先について詳しく聞かなかった。
それも不思議や疑問に思われるが、僕はその時点で、相手を信じるしか選択肢が無かった。
当時も、これだけ好きなようにして好き勝手されて、実際にかかったお金や労力を回収する事も出来ない。だから信頼するしかない。
というのが当時の我が家と僕の心境だ。
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何でも首を突っ込みたがる、気になったものしか実は一切目(視界)に入っていない、すぐに反応して、見たがる、知りたがる、関わりたがるのは。
境界線と自己愛性人格障害者(異常者)によくある事だ。
僕もそういう所がある。今でもまだ残っていると思う。
ただ、それが他人との境界線や、パーソナルスペースを侵害、侵食してはいけない。
僕は、恐る恐るそこを経験しながら学んでいる最中。
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僕の「社会的制裁を求む」という僕の最大限の着地点に対して、
「告訴は許してください」
と向こう側が言っている件について。
僕は
「誰かが死ぬまで、この話は終わらせないから」
と僕がいつものように言うと
母は何とも言えない顔で
「私には関係ないもん」
と逃げ出した。
・・
僕は思った。
逃げるのではない、関係ないのだ。
ちなみに今回の件は、我が家の、僕の有限な人生、我が家や親せきの想い、生命、財産が利用されて食われている所から、僕は問題提起に入っている。
だから僕は死んでも許さないから、落としどころを付けろと、構えている。
だから、関係ないのではない、この人は怖いから不安だから逃げているだけなのだ。
この人は、相手を見てしかモノを言えない。
相手を見て、言える相手や自分より下と認識した人に自分のテリトリーや自分の支配下に置いてコントロールしようとする。そして気持ち良くなり(悦に入り)、この人の人間性や問題がある部分に気が付いた人から、母は見限られ捨てられているだけだ。
結局、この人は同じことを繰り返しているだけ。
こうして子供殺しの少女老婆は死んでいくのだ
「関係あるから私が言ってるの」
「関係あるから、私が迷惑するから」
「私が」と続けて、
「だから、私が言ってあげているの」
「だから私が教えてあげてるんでしょ!」
と繋がるが、実は、この人も関係ないのだ。
完全に無関係ではない、影響が無い、とは言わない。言えない。
僕はそんな極論を言っている訳じゃない。
ただ、異常な過干渉という部分で言えば、僕も同じ。
自分の首を絞めるまで、他人の為に異常に尽くすのは僕の問題。
だから、僕が言いたいのは、僕は相手を信じる事を今は出来るようになったけれど、それは、今回の一件から学ぶ事もあるし反省もあるから。
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少女老婆の母は、今まで一切その成長もしていない。
この人は、何でも、僕がする事に対して
「私が言われる」
「私が責任や、どうなってるん、って私が言われる」
「私に関係する、私に影響がある」
「私が」「私が」というのは。
僕の人生と、この人は自分の人生の境界線が壊れているのだ。
・
例え僕が死んだとしても、いや、人を殺したとしてもだ。
親には関係ない。
有名無名に関係なく、何かの事件や問題が起きた時にその家族や関係する人たちの責任追及や連帯して問われる事はある。
母は、今までもやる事はやってくれているのだろうが、やらないで良い事、やらない方が良い事、やってはいけない事を、同じようにして来る。
それは、やるべき事、やった方が良い事、やりたい事、やってはいけない事、やらない方が良い事、やるべきではない事が同じ。
これが自己愛や境界性人格障害が、周りの人間や、家族を壊す過程と理由。
・・
ここまで書いて思い出した
これは、自分を中心に点を置いて、その周りに円を一周、その更に外側に一周、円を書く。
自分は中心の点。
その周りは、自分に関係する、自分が影響を与えることが出来る範囲。
この影響を与えることが出来る範囲というは、自分の家族や大切な人たち、愛する人、と括ってしまうと難しくなる。
家族だから、愛する人ならば、何をしてもいいと判断する事も出来る。
家族だから何をしても許される訳ではないが、そこが問題点だと思う。
例えば、些細な事でも問題行動をしている家族や大切な人たちがいたら、すぐに止めに入るかどうか、話し合うかどうか、ここで信頼関係が生まれて、問題の解決や最善への糸口になる。
・
逆に僕の様に、自堕落で自由が過ぎる人間にも問題がある。
家族の問題や、家族の誰かが事件や事故を起こした時、家族には必ず影響が起きる。
それを家族とはいえ他人だ、関係ない、境界線を越えているぞと言い切るのは間違っている。
ただ、過感情や過剰反応という異常行動をしている事を、当人や、障がい者たち、異常者たちは一切気が付かない。
うちのASDの彼女もそうだった。
私は間違っていない、という事を、本気で理路整然と言い切る視点だけで生きている。それを認めろと言う風相が、発達障碍者たちの問題点だと思う。
僕は、それを支えながらも痛感した、この二年。
僕は生きている。
・・
毒親には何を言っても理解不能で、残念で酷だけど、話をしても人生の無駄な事も少しは解かっているから苦しい所なのだ。
親だけではない。
誰だって、話にならない相手に、親身になって必死になって尽くしたとしても話し合って伝えたとしても、話にならないのだ。
そういう事も人間なのだ。
・・
結果的に、僕はそういう人生を歩んできたので、大切な人のプライバシーや個人的な事は、極力聞かない様に「信じる」という事をする。
・・
話は脱線したから止める。
僕がさっきこの日記を書き始めたきっかけは
「関係ないけど」
と逃げる、いつもの逃げ口上に出た母親を見て、気が付いた違和感だった。
この人はいつも
「私に、私に」「私が、私が」と言うけど
最終的には「関係ない」と言って逃げる人間なんだよ。
でも、それって人間の本質と言うか、人間ってそういうもんだと思う。
年を取って都合よく手のひら返すなよ、と言いたいのはもうとっくの昔だ。
お前が言ってきた事は間違っているし矛盾している。
・
そもそも人間だろうが動物だろうが、そういうもの。
関係あるから私の言う事を聞きなさい。
私が迷惑を食らうから、私が怒られるから、私が非難されるから。
私が、私がというけど、言いたいのだろうけど。
いや、お前は関係ない。お前が僕の人生の最期までの面倒を見るのか?
それならある程度は理解する、受け入れて考える。
でも実際は全然違う。ただただ自分の存在価値や自尊心や欲求欲望のために家族を私物化しているだけの女だ。
・
そうだ。
僕はそれも20歳を超えて言っていた。
「お前らの言うとおりにしたら俺が死ぬまでお前らが全部責任取るのか」
こう言う事だ。
誰も親だろうが子だろうが友達や知人だろうが、他人だろうが、突き詰めなくとも、問題も問題ではない事も、関係は無いのだ。自分の事では無いのだ。
・・
・・
母が台所から動かない時。
「そこで居座られたらこの家の間取り上、あんたがそこに居たら邪魔やねん」
と言っても、ガラス玉のヨナ目で口ばしの様にしわしわの口元で睨みつけるだけ。
僕の部屋の隣が台所で、この人がいると精神的にも息が苦しくなる。地獄。
いちいち、うるさいし、干渉が酷く、気持ち悪い。
「お前の男でも旦那でも無いんだぞ」
僕は一日でも早く金を残して死んでくれとしか一切思わない。
これはもう僕が死ぬまで一生変わらない事だと概ね思っている。
ここまできて、今の時点でもこれなのだから、未来は未定とはいえ、これが我が家、僕ら一族の末路なのだと思う。
・・
老害とは言わない。
こういう時、自分も動く事で、その場や物事がどう動くのか、考えられない人。
自分が正しいと思い込んでいる人間は、大なり小なり、自分の意見と違う意見や、自分を他人に指示されて動かされることを、異常に、嫌う。
・
僕の周りでもたまにいる。
自分が道を譲れば良いところを、頑なに退かないから喧嘩になる。
これは街中でも外の世界でも全く同じだと思う。
自分の我を押し通す時や場面もある。
全部自分が引かなければならないのも間違いだ。
ただ、この人の様に、自分の好きなようにしたい、他人に指示したり、他人を自分の言うとおりにさせる事で悦に入る、異常な人間。
自分が動く事で問題が解決することですら、
「何で私がそうしないといけないの」
「何で私がどかないといけないの」
と、共存共生する視点が持てないから。
人と人とは壊れるのだと僕は考えている。
・・
・・
次に書く事と真逆な事、否定している事を書くけど。
些細なこととはいえ、どうでもいいような事に見えるけど、やっぱりここで死ぬべき時が近いと僕は思う。言葉をここだけ選ぶ。
絶望死の話だって一概には言えない。
最近は親も
「完璧な人間、完璧な親なんていない」
と都合よく言い分を変えている。
僕の周りにも、生活保護や手帳、前科持ちも、何かしらありながら生きている人もいる。何もしていない奴もいる。
僕は爺ちゃん、母親、父親、を見ても同じ多動性が強い。
体力や行動力は、僕にも共通して異常にある。
動いていないと死ぬくらいに動く。
でも僕はダラダラしたい。
爺ちゃんは、仕事や家族のこと以外ではずっと休んでいたい。
体力には限界や元々持っているキャパ(容量)がある。
それを鍛えて増やして強くなるのも人間。
何もせずに甘んじていくのも人間。
僕は甘んじて負けた人間のようだ。
僕は動きたくても動けない。
ここで気が付いた。
僕は安心さえしていれば、多少の事は、持ち前の図太さやダメな所で乗り越えられる。
この不安は、けどこの不安は、たぶん、一生治らない。
最近、判明したけど、子供の頃(幼少期から)受けたトラウマや精神的な傷で脳は変化する。
委縮するとかどういう変化をする。気になる人は調べて。
僕は一生この地獄とは今はもう言わないけど。
この不安や辛さからは逃れられない。
いわゆる解毒や融解というものもあるのは知っている。
色んな人の話や文章を読んでいる。感謝している。
だから今すぐどうのこうのなる話をしている訳じゃない。
でも、いつかくる、現実は必ず僕にも来る。
人間だから、生々しい。
・・
ここまで日記を書いて、何度も修正して、結局5000文字くらいまで膨れ上がって今。
僕はパンのくだりを少し忘れて気が少しだけ消えて紛れて言っている。
あれだけ怒り、異常に不安で、狂いかけそうだった事ですら、こうして日記を書いて、もしかしたらこの後、どうするか「無」の今の僕にはちょっと分からないけど、きっと夜になれば、何日か経てば、嫌でも、辛くても、傷や苦しみは消えなくても、それで完全に心が折れて立ち止まって何もしないで倒れるような事は絶対にない。
ほら、他人から見れば賞もない事のように些細で小さなことのように思われるような事でも僕にとっては異常な事で、それを理解してくれとはもう言わないけど、こうして人間は成長して強くなれば、馴染むことも慣れる事も悪い事ではなく、生きていく上では必要な一つの大人になる過程だと思っている。
誰しもが通る道では無いかもしれない。
僕はそこも変わっているかもしれない。
けど、僕には僕に会った成長や経験や学びが必要なのだ。
誰にでも当てはまるような教育や普通の価値観や経験からは僕は成長できなかった。まともに、幸せになる為の成長が出来ない。
きっと、こうして成長する。
何か自分の不幸や障害を訴えたい人も、訴えるのは自由だけど、あなたにはあなたに合ったやり方で成長しないと誰も相手しないよ、と、だけ。
僕や世の中の生き辛い人たちに届くと良いなと思う。