自分が変われば周りも変わるし全てが変わる
変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
変わってしまうかもしれない。
変わらないかもしれないけど、変わらないと良くない事もある。
それを考えるのは自分。
それを知っているのは、自分だけなのだと思う。
悲しいけれど、それも現実。
・・
僕の怒りは、こうして書き残す事で、その感情は報われている(報われた)のだろうか。
僕の怒りはどこに行ったのか。
僕の感情はどこに行って、どうなろうとしているのだろうか。
僕が昨日の事を思い出せるだろうか。
鮮明に覚えていて、今でも許せず、怒ったままだろうか。
1週間前に感情的になったあの悩みは今どうしているのだろうか。
思い出せないのか、思い出す程の事ではなくなったのだろうか。
人間は変わらないと良くない事もある。
・・
僕は記録することで、僕はその事について(対して)
「絶対に忘れない(忘れたくない)」
という宣言、制約になっている。
ただ、それをしたからと言って、その問題が解決する訳ではない。
・・
僕がそれまでしてきた事は、自分の人生の学びとして、己の血肉となっているのだろうか。
僕の今までは報われているのだろうかと今も考えている。
それは他力本願でも、勝手な自己満足でもなく。
自分を生かしてくれた人たちに、自力で、その想いにちゃんと向き合い、返事が出来たのだろうか。
僕を生かしてくれた人の想いは少しでも報われているのだろうか。
もしかしたら、心のどこかに少しでも、
「恩返ししなくてもいい」と僕は思っていたのではないだろうか。
綺麗ごとや言い訳がましい自己弁護はいらない。
人間のやる事は偽善だけではない。
けど、気まぐれや道楽で人に優しくするほど人は甘くは無い。
世の中そんな悠長で気長な事を言って、待ってはくれない。
絵本の中のおままごとがまかり通る訳は無い。
・・
生きていくのは大変。
「生きるのは辛い」
と言っていたけど、今の僕が生意気な当時の僕に生意気にも言えるのは
「そんな楽な生活しておいてそうやって生きてられるんだから、解かったような事言ってんじゃねえよ」
・・
わからない事が多すぎる、毎日そんな感じ。
堂々巡りさせながら生活をしている。
そうやって事を考えるのは、
僕がこうして、ここにも日常を書いている事は大きな要因だと思う。
もし、誰にも見せない、見られない、見せる事がない日記しか自分の中に持っていなかったら、僕は物事を前に進められていなかった気がする。
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書いている事は、僕から見ての現実である事。
書いている事は僕が事実、今考えている事。
書ける事は、考え、言語化しようとしている事。
書いてしまった事は、後から修正できるが書いた事実は消せない。
見られているから誇張も脚色もしない、ありのままである事。
下手に意識しない事。
だから僕は悪口と言われるのを恐れるのかも。
上手くない、下手な事をしているとは思われたくはない。
けど今の僕には、まだこれしか方法が無い事。
今はそんな感じ。
過不足なく日記を書くのは難しい。
そもそも日記にも正解なんてものはない。
ただ僕は空想でも偶像でもない現実を発信することで理解や共感を求めているから、僕の中のルールと覚悟しないといけない事はあるのだと思う。
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・・・・・・
人は、自分がしている事が成功すると
それを「自分の力」だと思っている。
でもその結果をすべて自分の手柄にするのはあまり良くないと思う。
自分が見えていない。それでは成長が出来ないと僕は思っている。
努力したのは本人。
僕もしたくない事をした後は
「自分が頑張ったから」
と堂々と、誇らしげに語っている。
やらなければいけない事でも、本人がやらなければ何も始まらない。
どれだけ周りの人たちが力になったとしても、いい結果にはならない。
結果的に上手くいっている、結果的に無事に良い結果で終わった事は、きっと色々な人の協力や応援があって成功したと思えないと、いつか自滅すると思う。
その誰か大勢の人たちのお陰で、無事に成り立ったという事実も、ちゃんと理解できていないと良くない。
そう今の僕は考える。
だから
「人に言われたから(誰かにやれと言われたから)」
「やれと言われたからやってるだけ」
と言っている内は、努力も続かない、結果にも結び付かないと思う。
何故そう思うか、それは僕はそういう人間だったから。
僕がそういう人間だから。
いくら他人に言われてしたところで、結局は形だけ(上辺だけ)で、実際には何もしていない。出来ていない事の方が圧倒的に多かったと思う。
現実と向き合っていない。
現実から自分の人生から逃げていたのだ。
それで上手くいった事、自分が誇りたくなるような結果が出た時だけ自分の評価(手柄)にして、自分に都合が悪い結果や痛い部分があれば他人のせいにする。
それでは変われない。
一生幼稚なガキ、子供のままな気がする。
良いか悪いかは別として。
もしかしたら、そういう人は、自分の事を変わる必要がないと思っているような気もする。自分は変わる必要が無いと思い込んでいるから変わらなくても今は良いのだと思う。
いざ、その時になれば嫌でも現実にぶつかる。
逃げたくても限界まで逃げた先には、
選択肢の無い人生しか残っていないと僕は思う。
それも人それぞれだから、否定はしない。
別にそれでもいいし、それで生きていく人は生きていけばいい。
共存する社会は、そんな綺麗な話では成り立っていない。
それは痛感している。
僕も人様に語れるような、正しい、真っ当な、綺麗な生き方はしていない。
僕もまだ努力する意味が解っていないのだと思う。
耳も胸も、何もかもが、苦しいくらい痛い。
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「運命も人生も自分次第」
そう言えない人は、どれだけ他力本願で得手勝手な人生を送ろうと決め込んでいるのだろう。
そこまで自分の人生を他人に背負い込ませられるほど人は強いのだろうか。
自分の人生に自分で責任や、自分の手で自分の意見や生活を成り立たせようと思えない環境で今まで飯を食っていたのだろうか。
本当に僕らは我が儘で勝手な生き物なのだなと思う。
そうやって、ありがたく生かしてもらっていたのだなと思う。
本当に強い人もいるのだと思うし、強さを履き違えている人もいるんだろうなと思う。
「何も間違っていない」と言いたいなら、一生一人で自力で生きて最後まで生きていけばいい。それでも生きていけるのが人間社会なんだとも思う。
僕はあれから、じいちゃんに手を合わせる時に必ず
「おかげで生きてるよ」
と自然と、必ず言葉になる。
「ありがとう、ごめんなさい」
の次が生まれている。
「ありがとう、ごめんなさい」
ついては、過去に何度も話をしているから今はしない。
僕がじいちゃんに手を合わせる時
「神様、仏様、ご先祖様」
と心の中で言葉にしている。
僕を生かしてくれた人。
そこには家族もいる。友人もいる。
今は縁がない人もいる。
今は生きていない人もいる。
生きているのかどうかも分からない、遠い所にいる人もいる。
これも何度も言うけど、僕が気が付いていないだけで僕を生かしてくれた人もいると思う。それも忘れずに手を合わせる。口にもする。
でもここでも思うのだ。
こうして手を合わせる事も、言葉にして口にするの事も僕の勝手なのだ。自分に都合よく美談にしてる勝手な話だという事。
じいちゃんが僕に語り掛けてくれる。
あの人の言葉が聞こえる。
あの人ならきっと僕にこう言ってくれる。
あの子の声が聞こえる。
それだって僕の勝手な都合、僕の一方的な解釈。
その人の言葉を、勝手に僕が作り上げているだけ。
そういう事にも気が付いている。
勘違いで怪我や火傷や失敗はしたくない。
だから、気を付けないといけないのだ。
・・
「神様は見てる」
と言いたい。
そんな風に、自分が気持ちいい言い方で言おうと思えば言える。
言いたい時もある。
運命とか格好よく言いたい。語りたい。
これも自己顕示欲、承認欲求かもしれない。
けど、言いたい気持ちには十二分に共感する。
僕はそういうのが好きなタイプだ。
けど、そうやって考えている人を見ると違和感しか僕は感じない。
本当に神様がいてその人の言葉を理解できていたとして。
神様がその人を世界の中心にして考えて、見守ってくれているなんて、
御大層なご都合主義なのだと思う。
そう言っている人たち全員がそういう安易な視野や思想で神様とかそういった言葉を使っているとは言い切らないけれど、ちょっと安直と言うか浅はかな見識だなと思う。
罪だとは言わないけど、「無知なんだろうな」とは思う。
※御都合主義
自分の定見を持たず、その時その時の状況に応じて自分に都合のいいように判断し行動する事。
節操がないね。
でも、自分の都合がいいように、勝手な解釈で、自分の手柄にしているのが僕らだろうと思う。
それも分かっているから僕も今は人を非難したくない。
そんな風に言葉を並べたいとは思わない。
けど、ついついしてしまう。
つい、瞬間的に、一時的に我を忘れてしまう時がある。
気を付けていても人は、無神経で無責任な事を言ってしまう。
だから僕が他人の言葉、言動で気に入らないことがあっても、そこまで怒り狂わない方がいいと思う。
本当にそう思うよ。今の今でもいつも思い知らされる。
言葉が正しくないかもしれないけど、
こうしている今でも、心当たりはいっぱいある。
僕だって同じような事をしているのだろう。
だから僕は大切な人たちに対して、自分が出来る事、自分がしてもらった事を都合よく捉えずに、良い事も悪い事も忘れずにしっかりと生きていたい。
・・
僕が10年20年前に見聞きしていた人たちも大きく変わっている。
大人は勝手だと言うが、僕らも勝手だ。
人間生きてれば勝手な事も言う。
手のひらを返したように見えてしまうのは仕方がないのかもしれない。
経験や年齢を重ねて生きていればそう言う部分で出てくる。
そして変わらない意見しか持ち合わせていない人とは、僕は関わりたくないかもしれない。見識が狭い可能性があると、話が合わない可能性が高い。
そして、変わっていく意見や、経験して見えてきた新しい価値観が、あまりにも酷い言い訳や見苦しい姿にならないように、自分を律する努力をするのも、大人の生き方なのかなと思う。
・・
僕が怖い人と思っていた人が、今になって
「あの頃は怒ればいいと思っていた」
「怒鳴れば(声を挙げれば)何か変わる(人に伝わる)と思いたかった」
と言っていた。
・・
物事には白黒ではない。切った張ったの世界ではない。
お金で全て物事が解決できる訳ではない。
そんな話で事が済んでいくだけなら、僕は哀しいと思ってしまう。
そうでなければ僕は自分の幸せを見誤る気がしている。
そういう話でいい。
極論で語れる事なんて浅い。
今は出来るだけ多く、広く、色々な世界や人から、新しい経験や意見を見聞きして、自分のものにしたい。
とりあえず、とりあえず、取り急ぎな話なんて今はない。
自分が頑張った事、自分が苦労した事、自分が努力したから出来た事、自分が痛い怖い嫌だ不安だ悩みだ苦痛だ、どれだけ言葉ならべても、それが終わった時に
自分がやったんだ
自分がやった事だ
と、自力や自立して自分がやった事として、カッコよく言いたい気持ちは理解できるけど。
それではあまりに無知で幼稚な、子供の戯言に見えてしまうよと自戒。
今日の僕は風邪をこじらせている。
外は暴風だ。
腰が痛いし、お腹も痛い。
・・
最後に話を少しだけ飛躍させるかもしれないけど。
話が突然に聞こえるとは思うのだけど。
孤独で死んだ人なんてそう周りにはいない。
いたとしても圧倒的な少数だ。
もう、わかっている。
考えてみてよ。僕も考えてるから。
ちゃんと現実を見ているから。
人生の中で、今の時点でどれだけの人と関わってきたのだろう。
どれだけの人達と知り合って、ここまで生きてきているのだろう。
どれだけの人間がいたかなんて考えられる数ではない。
その中で何人が死んだんだ?と。
どれだけの人が死んでいるんだろうかと。
自分が思い込んでいる以上に人は死なない。
死んでいても、それは関係ない所で死んでいる。
自分が見ている世界を、自分がどれだけ見えているのか考えてみる。
僕の目の前で死んだ人は少ない。
少なからず、僕の年齢では、僕と関わってくれた人たちは、死んだ人より、今も生きている人の方が多い。多いはず。
いつかはそれも逆転してくるのだとは思うけどね。
今はまだ生きていると信じている。
だから、僕は発言、発信し続ける。
だから、そう簡単に、そう易々と、生きるだ死ぬだと言葉にして語っていると、痛々しいし、格好が悪いだけだよと自分に言っている。
みんな、また逢おう。
・・
2024/03/29
追記修正
この日記は何度読み返しても纏まりがなく、でもどこを治せばいいのか上手く糸口が見えなかった。
今もそう。
ただ今朝、少し考えた事があった。
母親が祖母に対して延々と悦に入っていた。
ただ、その母が話している内容の中に、気が付いた事がある。
それは今の僕が母親に対して言っている事。
それを母は自分の母親(僕の祖母)にしているのだ。
それが正しいかどうかの話ではない。
自分がしている事自分が指摘されて気が悪いし、発狂するような負の感情になる事でも、他人には偉そうに、正しそうな事を言っている。
自分が問題行動や何か間違った言動をしている時は自分の姿が見えておらず、そこを他人に指摘やアドバイスされても睨みつける、大きな声や挑発やヒステリーを起すしかできない母親が、同じような事をしている自身の母親に対して、僕が母に言っているような事を平然と言っているのだ。
ここもやっぱり毒親親子関係なのだなと思う。
・・
あと、母親には愛嬌と呼ばれるような可愛げが無いのだと思った。
人間として愛される為に必要な能力が無いのだ。
それは表現、伝え方、言葉の言い方、タイミング、モノの考え方や捉え方。
一つ一つ上げだしたらキリがないかもしれない。
けど、人間同士、お互いを尊重したり、コミュニケーションを上手く、お互いがお互いを想い合う、お互い様が成り立つ関係性を築けない。
その信頼関係を築くため(過程)の経験が著しく足りないのだろう。
だから今に至るのだと思った。
・・
誰しも良い事もすれば間違いをしてしまう。
その色々ある中で、人間関係や共同生活は成り立っている。
そこで感情的に、相手を自分の意のまま、あるいは、自分が好きな事、自分が気に入るような事を他人に求める(強要する)のは、少し幼稚すぎる。
それで特別な関係や、信頼はお互いに生まれない。
だから継続して良好な関係性が保てない。
それはどこかで限界が来る。
ただ、そうならない為に僕らには言葉がある。
思い合う気持ちが大切、大事なのだ。
それが出来たからと言って縁や関係性が無事に続くとは言い切れない。
それの繰り返し、重なり合いがご縁だと思えてきた。
その他者との境界線や、コミュニケーションに致命的な問題があるから、母は孤独で幸せになれない人間なのだ。
どれだけ努力や我慢や苦労を盛り超えたとしても、そこには報われない現実や孤独があるのは、致命的な問題を未だに解決させる為の力が足りていないのだ。
人間関係はみんな基本的には同じだと思う。
それは、夫婦も家族も仕事も友人関係も同じだと、僕は言いたい。