死ぬ勇気もないのに息苦しさを語るな
僕は少しだけ身軽になった。
間違って身体も見失ってしまいそうになってしまったけど、過去のトラウマや過去の自分に囚われてしまって死にたくなった。
心の断捨離は重要だった。
生き辛さや息苦しさというのは精神病だと言って片付けるのは個人の自由ではあるけれど、僕の場合は少し違った。
病気だというのは簡単。
僕は記録しなくなった。
僕は変わった。
僕の信頼(信用)を取り戻すには記録する事を止めるべきだと思った。
僕は、あの子に宛てて手紙やメールだけでは僕の事は解かってもらえない伝わらないと思い、写真だけではなく動画やボイスレターを記録し始めたのは5年前。
それでも彼女からは手ごたえも響くことも無く僕は記録というより溜め込むばかりになった。
それと僕は今までの経験から「何かあった時」の為に、自衛の為に、記録する癖を持った。
その結果、僕は日記や記録する病的な癖がついた。
日記に書くことを覚える、携帯のメモ帳にすぐに書いて残す。
それを延々と続け続けた。結果的に僕は息苦しくなった。
そして人間の脳、記憶なんてものは曖昧で適当なところがあって、自分の中で美化したり勘違いみたいなものも当然生まれていたと思う。
けれど僕はあの子に自分の日常や見えている世界、風景を伝えるために記録することを書き続けた。
頭も心も壊れるまで書き続けた。
僕の事を「ただの片思いだろ、ただの失恋だろ」と言いたい人もいるだろう。「家族(親)と上手くいってないだけだろ」「自分のせい(問題)を他人のせいにするなよ」と言ってくる人もいるだろう。
けれど僕はそんなことは関係ない。相手にしない。
僕の事は僕にしか解からないし、僕らの事は僕ら「それぞれ」にしか分かっていない事がある。
僕も君も、解かっているようで解かっていない「相手の気持ち」がある。
・・・・・・・・
証拠としての記録はもう止めたい。
僕は何者かになって何かを作りたいのが主題ではない。
僕は大好きだったあの子と一緒に生きていく世界を夢見ただけ。
愛する人に愛されたかっただけ。
これからは、もう少し踏み込んで「心の断捨離」をしたい。
その過程で、少し踏み間違えて「体」を捨ててしまう事もあるかもしれないけど、それは「捨てた(見失った)」と悲観的に見ないで欲しいものだ。
僕はこの日記を書き続けて更新させながら生きている。
2022年07月11日
散文。
今ここに至っても「僕らの日常」は、振り返ると床に散らばった日記を
ただ眺めているだけの日常でした。
どれだけ言葉を並べようと
僕らは変えることが出来ない過去に囚われているだけ。
ただそれだけだったのかもしれません。
でも、今も、駆け引きはいらない。
やましさもいらない。素直に僕らと向き合いたい。
・・・・・・・・
僕らは神様でも賢者でもない。どれだけ言葉を重ね並べようともそこに完全無欠な答えはない。わからない奴にはわからない。
僕の周りも今日もまた変化し続ける。今も今さっきも変わりゆく風景だ。
どれだけ答えを求めて重ね連ねても重ねても、もうそこは過去として通り過ぎてしまっている。だからいくら僕が僕らがと答えを叫んだところで、それはもうそれで、それはもう過ぎ去った(過ぎ去ってしまった)過去の話なのだ。
僕が嫌いだったあの人も、今でも嫌いなあの人も、もしかしたら今は月日年月とともに変わっているのかもしれない。
けれど僕は縁を繋ぎ直すことも、よりを戻す事もしない。
僕は僕らしく、
「自分が好きになれる自分」になれるように地に足をつける。
だから下手に付き合いを戻そうとはしない。
無駄な時間や労力を割いて仲直りするなんて道は選ばない。
死ぬ時間も死に金も、
「死」んで殺してしまうような相手やモノとは
もう付き合わない。
十分痛い思いも眼も見た。これ以上は傷つきたくもない。
自分の人生や存在を殺してしまうような日々や相手とは手を組まない。
それを今でも「悲しい事」のように思ってしまうのだけど。
僕らがどれだけ叫ぼうが、語り明かそうが。
解かり合う日々は続かないし分かり合える日は来ないのだ。
それもまた空回り、また「空虚」に苛まれるだけだったりするのです。
「所詮は」だ。
僕らは「特別な何者」でもないし、その「何か」でもない。
・・・・・・・・
ふるさとのあの香 今でも 変わらない だろうか。
知らない景色 届きますか つながりますか ?
あなたのところに。心に。
僕はいつ死んでも後悔しないように。壊れないように。真剣に考えて。
自分の未来を思いながら全力で生きて、最後は飛び立ちたい。