改めまして人間、はじめまして愛

これが僕の2025年、最初の日記になります。

新年の挨拶や感謝を伝えた日記を書きたいのですが、このような日記から始めました。

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この年末年始で思った事は、今の僕には、一年を通して季節や行事、そういった事を楽しむ事が、まだできない力量なのだと思う。

昔から一年を通して決まった心の波がある。

夏になれば落ちて、秋から冬に向けて元気になる。
年末年始、新年になるにつれてまた落ちていく。

でも今は単純に
「それどころじゃない」
「そこまで頭が回らない、付いていけない」
と言う気持ちしかない。
だから落ち着かない。

自ら、落ち付けないように、しているのだとも思う。

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人間としてまだ未熟なのだと思う。

経験から、僕に合った解決や、正しい成長をしていないのだと思う。

余裕や余力を持たなければいけない。
このままでは僕が思い描く、僕らしい、人間らしい幸せには辿り着けない。

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でも人間は、生きていればそういう時もあると思っています。

ここで「子供は」と書いてしまうのが今の僕の悪い癖かも知れないけど。

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大人はオンオフの切り替え方や公私混同しないとか言う。
けれど、それぞれで抱えている現実や問題は尽きない。

更に自分のしなければならない事、更に責任。
自分がしなければならない事が「更に」にならなければ出来ない時もある。

自分の時間、自分の事も後回しになってしまう事もある。
それでもそれでもと必死になって働いて気を使って神経をすり減らしながら生きている。

そうして自分の事、家族の事、我がごと以外。

生きていれば背負うものが、抱えるものが自然と増えていくのです。

だから自分の事だけを考えて、自分の主観の視点だけで物事を分かったような気になって、語って、行動しているだけでは子供だというのです。

視野が狭く、思慮も浅い。知識と経験が無いから、自分の姿すら、自分がしている事すら、一切、気が付く事すらできないのです。そうだと僕は思っています。

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当然、整理して捨てなければならない事もある。
だから取捨選択、選別して生きていくのだ。

安易な言い方がけど、事実、お金が大事な人はお金を抱えて眠ればいい。

それ以外の欲や何かが好きで夢中ならそれを抱えて死ねばいい。

僕は、幸せになりたい、と言い続けて叫んでいました。

それならば、幸せは際限なく、なのだろうか。

僕の過去の話で言うと。

「あの子と一緒になるまでは」
「あの子に会うまでは!」

「あの子と一緒になって幸せになるんだ」
というような言葉や解釈は

「あの子」という存在があり、僕と合の事が一緒で幸せと言う答えが僕の中で成り立ってしまっています。

では、「あの子」が「その子」じゃなくなったら、どうなるのだろう。

もし「あの子」と一緒になれた後、もし「あの子」以外の誰かと一緒にいた方が幸せだと思う時があれば、それはどうなるのでしょう。

複雑な事、細かい事は言いたくないから。

例えば、あの時の僕の言葉、考え方は
「○○と一緒になって幸せになるんだ」
という、「○○と一緒に」の部分が執着になっているのだと思います。

執着が絶対に悪い訳ではありません。

大事なことは、自分が幸せであるか。

そして自分が幸せであるのは、自分だけの力ではなく、自分を支えてくれる人、自分を大切にしてくれた人がいたからこそ今の自分がいる事を理解しないと大人にはなれない。

共存、共生の上で自分の幸せが成り立たっている事を、見誤ってしまうと見限られ。自分を見誤ると、勘違いしてしまうのです。

「自分にとっての一番の幸せとは何か。」

それを自分自身に問いかけ考える必要があるのです。

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自分や家族や大切な人たちを大切にする。
安心や安全、自分の居場所を守る。大切な存在を守る。

そうやって繋がっていく考え方が幸せへの道。

自分がどうしたいのかと言う方向だけで、幸せや自分の人生の責任を語る。
自分軸だの納得だの「自分らしさ」を言いだす。

だから、我が事だけしか物事も考えられない人間や人生になるのだと想う。

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僕の場合。

自分一人の話ではないのに、こうなれば幸せになれる、と一方的で自分勝手な話を成立させた事が問題だったのです。

22歳の僕には、それを受け入れて理解するだけの力が、何ひとつ無かったのです。

今の僕には特定の特別な誰かはいませんが、その時の事で考えるならば。

「○○と一緒に生きて、一緒に幸せになるんだ」
という考え方だと思います。

では、○○がいなければ、存在しなくなれば、幸せにはなれないのか。
○○の部分が絶対条件であるなら、それを最優先に行動出来ていたのか。

それを振り返ると。

僕はまだ僕は理想論や綺麗ごとを言い、自分の間違いにも気が付くのです。

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「じゃあ、離婚したらどうなるの」
「結婚しなければ幸せになれないの?」
という疑問や話には、僕はまだ違和感があるのです。

僕が言いたいのは。

自分(だけ)が幸せになれたら良い、自分が良ければ良い、という考え方になっていないかという事だけ。

そういう視点になってしまうと問題だと今の僕は言いたいのです。

だから自分軸だけで幸せについて語っているのでは良くない。
そう僕は言っているのです。

「この人と」「この人を」→幸せにしたい、幸せにする

そして僕も一緒に幸せになりたい。
これが大切な僕の答えのだと思うのです。

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足ると知るとか言うとまた怒られるのだろうか。

瞬間最高到達地点のような話に聞こえるのだろうか。

「人をゲームみたいに、スコアみたいにして言われた方は気分が悪い」
とまた誰かを怒らせてしまうのだろうか。

僕はまだ理想論とか綺麗ごとを言っているのだろうか。

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快楽や欲のままに、気持ち良く、楽しく、楽して人生を生きて謳歌したいなんて理想でも何でもない。幼稚で未熟な悪夢だと思う。

何でも好きなように出来て、お金も何でもすべてある。
そんな現実ではない事を夢描いて、妄想して苦しむのは無知で愚かな人間のする事だ。

そんな世界や人生が良いなら、一緒にいる人の事は、最も大切な事では無いと思う。僕にはそう見える。

お金が無くても愛があれば、と今更だけれど。バランスの問題だろう。

自分に合った生活感が大事なのだ。

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2024年までの自分と今からの2025年僕の違いについて書きました。

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僕にとっては、自分が一番大事と言うのと同じように、やっぱり、僕と一緒に生きて一緒に幸せになろうとしてくれる人と言うのが大事なのだと思う。

そういう存在が、僕にとって最優先するべき事。
それを人生と幸せだと想っている。

下書きのまま、このまま公開しようかなと思う。
訂正しながら、話が脱線したり無茶苦茶にならないように気をつけながら、更新していこうかなと思います。

2025年に幸あれ。

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