もう海に沈めなくてもいいように
「コンクリートに括りつけて、海に沈めてしまいましょう」
同僚が言い放ったその物騒な言葉を、お守りのように胸に抱いていた時期がある。
その同僚と出会った職場は、博物館だった。
私は、大学を卒業してから、正職員の学芸員になったが、1年半ほど働いたのちに退職した。そのときの私は抑鬱状態だった。
半年ほど何もしない日々を送った末、私は、博物館の非常勤職員と大学の非常勤研究員として働くことになった。
博物館では、学芸員としてではなく、来客対応をする解説員として採用された。チケットを売ったり、監視をしたりする仕事だ。
博物館と大学で非常勤として働く給与を足しても、正職員だった頃の給与には届かなかった。
博物館で、私と同じ仕事をしていたのは、私が卒業した大学よりも偏差値の低い大学を卒業した人たちだった。
その頃の私は、自分の価値を、そして他人の価値を、勝手なモノサシで測っていることに気づいていなかった。
自分は他人よりも優れた人間であると思い込みたかったのだと思う。
そのころ、働きながらも、もう一度大学院で学ぶことを心に決めていた。
今思えば、純粋に学びたいという気持ちよりも、かつて優秀だとほめそやされていた頃に戻りたい、という邪な気持ちのほうが勝っていたかもしれない。
そんな私の傲慢さを神様は見ていたのだろうか。
博物館で働き始めて数週間が経った頃、一人の来館者から罵詈雑言を浴びせられた。
そのとき展示室の入り口にいた私は、その来館者を呼び止めたところだった。
その展覧会は、再入場が禁じられていたため、入り口から出て行こうとする人は、呼び止めて理由を尋ねることになっていた。
呼び止め方がまずかったのかもしれない。
2回出て行こうとするから、2回とも呼び止めたのがいけなかったのかもしれない。
咎められているように感じさせてしまったのかもしれない。
その来館者は、泣き叫ぶように、「こんなに失礼な扱いを受けたのは初めてだ」と言って、私を詰る。
その日、その人は、私を付け回した。何秒も私の前に何も言わずに立っていた。
そして、帰り際、私が一人になったときを見計らって、叫びはじめる。
あんたの顔は、本当に気持ち悪い。
ブス。ブス。見ているとムカつく。
一生結婚できない。
かりに結婚できたとしても、相手がかわいそう。
あんたみたいな杓子定規みたいな対応しかできないと、こどもなんか育てられない。本当にブス。
私は、頭を下げながらも、絶対に泣くものか、と思い、唇の裏を噛んでいた。
その人が立ち去るときに、私に向けた、怒りに燃えた顔を今も覚えている。
描こうと思えば、その顔を描くこともできるだろう。
その日は、実家には帰らずに、そのまま彼氏の家に言った。
一晩中、泣き止まない私を、彼は慰め続けてくれた。
そんな心無い人の声に耳を貸さなくていい、と彼は言った。
一晩経って、忘れよう、と思った。
それから、もう二度と対応を間違えないようにしよう、と心に決めて、来館者に不快な思いをさせないように、心を砕くようになった。
それから、半年ほど経ったある日、職場の休憩室に入ってきた同僚から、
「如月さん、聞いてくださいよ」と声をかけられた。
その同僚は、腹を立てていた。
彼女が、何に腹を立てていたのか、詳しくは思い出せないが、とにかく彼女が対応した来館者が失礼な態度をとったという話だった。
私は、彼女の愚痴を聞きながら、「大変でしたね」と彼女を労う。
彼女は、ぷんぷんと怒っているときも、顔は笑っていて、つらい話も笑い話に変えてしまう。
そんな彼女だったから、私も笑い話のように、来館者にブスって言われたことありますよ、と半年前の出来事について話した。
でも、私が話し終えたとき、彼女の顔から笑いが消えていた。
あ、話さないほうがよかったかも、と後悔したのも束の間、
彼女は、ぽんぽんと、私の背中をたたき始める。
「如月さんは、ブスじゃありません。」
彼女は、真剣な顔で怒っていた。
私は、美人とは言い難い顔だから、そこは間違ってはいないんだけどね、と内心では思いながらも、「ありがとうございます」と言った。
「もうそんな言葉は、海に沈めましょう。コンクリートに括りつけて、深い、深い海の底に。」
彼女の言葉があまりにも不穏な響きをもっていたから、真剣な彼女の前で、私は笑ってしまった。
「あはは、それはいいですね」と、可笑しくてたまらないというように、手で涙を拭くふりをする。
唇の裏を噛みながら。
本当に零れ落ちてしまわないように。
あの出来事があって、忘れようと決めたはずなのに、本当は何度もその瞬間を思い出してしまっていた。
ぎろりと睨みつける目。
ブス、と言われた衝撃。
結婚できない、子どもを育てられない、という呪い。
同僚に打ち明けてからは、その日を思い出してしまいそうになるたびに、深い、深い海を思い浮かべた。
蒼い海を思うと、すこし心がシンとした。
私は、あれから、何度も、何度も、海を思い浮かべた。
本当に、何度も。
だけど、沈んではくれなかった。
何度も、何度も、過去のあの日が浮上する。
フォトウェディング撮影の朝、ホテルの朝食会場で、私はまた深海にトリップした。
あのときの来館者と似た背格好の人がいた。
ただそれだけで、動揺してしまう。
「どうしたの?」と夫に話しかけられて、
「前に会ったことのある人に似ているような気がして」と、その人を見つめつつ私は答えた。ウソではない。
人違いだった。目つきがちがう。
そう確信して、ようやく目の前の朝食にありつける。
不安を吹き飛ばすように、がつがつと目の前にあるものを口に運んだ。
どうして、こんな幸せの絶頂の日に、こんな気持ちになってしまうのだろう、と思うとやるせなかった。
私は、「海に沈めましょう」という同僚の言葉に救われた。
そう思っていた。
だけど、本当は海に沈めることなどできないのだ。
忘れたくても、忘れられない。
忘れよう、もう忘れた、と思っていても、ほんの少しの引き金があれば、何年経っても浮上してくる。
私は、あの呪いに反して、結婚した。
でも、子育てできないという呪いはまだかけられたまま。
あほくさい。
そう思う。
でも、そのあほくさい言葉が、ずっと私の周りを漂っている。
どんなに幸せな記憶で上塗りしてしまおうとしても、消せない。
けれど、私はそんな呪いをかけられていても、だれかを呪ったりしない。
私に呪いをかけたその人も、しあわせに暮らしているならそれでいい。
私はだれかを呪う代わりに、「ありがとう」と言うことにした。
私は、呪いをかけた人に感謝しているわけではない。
「ブス」と言った人にありがとうと言えるほど、私は心が広くない。
そうではなくて、自分とかかわってくれる人、みんなにありがとう、と言いたいのだ。
かつて、私は、自分のことも、他人のことも、モノサシで測ろうとしていた。測れると思っていた。
偏差値だとか、給与の多さとか、そんなもので人の価値を測ることはできないのだと、思い知ったのは、博物館で働いているときだった。
自分よりも偏差値の低い大学を出た同僚たちは、私よりもずっと仕事ができた。私のように来館者を怒らせることはなかったし、臨機応変に動いて来館者を喜ばせていた。
かつて私が正職員として働いていたときよりも、ずっと低い給与しかもらえなかったけれど、同僚たちは熱意をもって仕事していた。どうしたら来館者を楽しませられるのか、毎日真剣に考えていた。みんな仕事にプライドを持っていたと思う。
だけど、そんな同僚たちも、ときどき心無い態度を向けられていた。
お金を投げつけるように渡されたり、怒鳴られたり、「そんなこともわからないのか」と笑われたり。
私のような呪いをかけられることは稀でも、きっとそんな態度を向けられたことのある人は日本中にいるのではないかと思う。
私は、少なくとも、4種類の人がいると思う。
①、③の人は、おそらく誰かに何かをしてもらったら「ありがとう」と言う。人の苦労を想像できるから。
②、④の人は、おそらく「ありがとう」と言わない。
口にはできても、たぶん本当の意味では感謝をしていないと思う。
苦労するのが、当然だと思っているから。
あの日の来館者は、おそらく②だ。私のせいで不快な思いをしたから、私のことも不快な目に遭わせたかったのだろう。
学生時代の私は、④だった。
自分が優遇されるのは、自分が優れているからだと思い込んでいた。
正職員を辞めたばかりの頃の私は、②だった。
この社会を呪っていた。
今の私は、①だ。
私は、みんなが①になってほしいとは思わない。そのためには、つらい経験をしなければならないから。
だけど、④の人であったとしても、③を目指すことはできるだろうと思う。
いや、できてほしい、と思う。
私は、「ありがとう」は循環すると考えている。
博物館で働いていたとき、「ありがとう」と言われた日は、家でも家族に優しくできた。
最近は、家にいて社会に出てはいないが、夫にいつもありがとうと言われるから、配達してくださる業者の方々、スーパーでレジ打ちしてくださる方々に、「ありがとう」と言わずにはいられなくなる。
ありがとうが循環するようになれば、もう誰かを呪わなくてもよくなるんじゃないか、と思う。
働くことに喜びが見出せるようになる。
きっと、もっとみんなが生きやすくなる。
やっぱり、それはきれいごとなのかもしれない。
たとえ、きれいごとだとしても、そんな世界を想像してみたい。
「ありがとう」が循環する社会を。
もう、呪いの言葉を、海に沈めなくてもいいように。