『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ)を読んで
下に感想を綴るのに、印象に残った箇所をメモに残しています。
哲学書だと思っていた
どこか忘れた、哲学書を紹介する流れで知り、そのタイトルに惹かれた。
九州のゲストハウスを旅する中で、ゲストが本書を読んでいて惹かれた。
しかし、蓋を開けてみたら、男女の恋物語だった。
二つの面で素晴らしい本だった。
一つは、男と女の一生の付き合いのその内面が、「重さと軽さ」というテーマをベースとしつつ、深く深く抉り取られて描かれていた点。
二つは、「プラハの春」という、名前だけ一人歩きして内実はちっとも知らぬ歴史を学べる点。
なんか素敵なタイトルに導かれて、表層的に哲学っぽいことを学ぼうとしていた態度と裏腹に、愛や人生に落とし込まれたリアルな哲学(?)によって深層的に、実際の生活に影響が出るくらいに、刺さる本だった。
ヤリチン男とメンヘラ女について
本書の大筋は、トマーシュというヤリチン男とテレザというメンヘラ女の人生である。文章中では全く高尚な表現で語られているが、敢えて俗な言葉で言えば、そういうことだろう。そう思うほど、現実的で、現在的な二人。自分にも周りにも当てはまる男女が描かれている。その中で驚くべきは、前章で書いた通り、その内面の抉り方。一方の苦しみ、悲しみ、それに対するもう一方の苦しみ、悲しみ。憎みつつも依存しあう心理の機微。幸福なのか不幸なのか、恋愛に流されていく人生。長い物語で、他人事とは思えない進展をしていくのは圧巻だった。
知らぬ歴史について
ヨーロッパの歴史上、チェコスロバキアがどのような変遷を辿って今に至るのか、全然知らない。「知らない」ことさえ、知らない状態。たまに洋書を読むと当たる壁、歴史。この本も同じで、とりあえず読むことはできても、きっと真に理解するには到底及ばない。ナチスドイツとの関係、ロシアの侵略、民主化への熱望、若者と大人、保守派と革新派、自分の力でどうにかなることと、どうにもならないこと。目に見えぬ力によって人生が動かされる「こと」や「その可能性あること」で、考え方は変化するだろう。知らぬ歴史が多いことに気付く。
重さと軽さのはなし
読んでいる間の時間、少しずつ、自分の考え方に影響を及ぼしてきている、と感じることがあった。「思考する時間を取りたい」と省みたのもその一つ。例えば、重さと軽さ。自分はどうありたいのか、そもそもどんなものなのか、と思考し(臨時でも)回答を持つべきではないか。自分は軽い存在でありたいと思いつつも、重さに癒される宙ぶらりんな存在であることを認識する。
二つ目は、さっき書いたばかりの「べき」、命令による支配について。これが良い、こうするべき、にいつの間にか行動を制限されていないか。されているとしたら、どんな「べき」があるのか。それは自分で設けたものか、人から与えられたものか、時代や世間が決めたものか。「べき」や命令、命題が悪いのではなく、「何があるのか」一度点検してみたい。
最後に、自我の高まりを感じた。これはなぜかわからない。特に主題ではないかもしれない。ただ、余りにも一人の人間に焦点を当てて心理を描くものだから、「自分にとってこの事象はどんな意味を持つのか」「自分にとってこの人はどんな影響を与えているのか」「自分はどうありたいのか」。無意識に考え、それ故に無性に苛立つことが増えた。見えない自分への苛立ちなのか、余りにも干渉が多いことへの苛立ちなのか、これが軽さへの憧れなのか。これはよくわからない。
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