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近江から東京まで歩く十八日目(完結) 川崎〜日本橋 24/10/19

まず、何から語り始めようか。今日のこの感動を伝える為にはまず、思い出話から始めた方が良いように思う。なので少しだけ思い出を語った後に、日本橋に着いて何があったのかという事を語れればと思う。

確かあれは4年程前であったと思うが、近江の自宅から京都駅まで歩こうとして逢坂山を越えようとしていた時、その峠にある東屋でちょっとした休憩をしようと思ったのであった。すると、東屋には先客が居た。しかもかなりの荷物が広がっており、側にある塀に着物を干しているという様子であり、これは只者ではない、と思った。こんにちは、と声をかけると、顔をこちらに向けてくれた。危うさの無い穏やかな、丸坊主の顔がそこにはあった。恐らくこういう挨拶には慣れているのだろう。何処から歩いて来たのかとか、日々何をやっているのかとか、そういう世間話が始まった。すると、この穏やかな旅人が、下北半島のむつ市から歩いて逢坂山までやって来たという、物凄い事実が判明した。そしてその頭の通り、とある宗派に属する仏教僧であるという事が明らかになってきた。

その時期の私は仏教という宗教に少しずつ興味を深めていたので、その僧侶と話せるという、しかも私と同じように歩くのが好きな人と話せるという、その二つの喜びがあって、より話を深めていった。やはり仏教を知るにはまずは般若心経ですかとか、これからどこまで向かうのですかとか、そういう話をしていた。どうだろう、かれこれ1時間半は話をしていたと思う。話が尽きる事が無くて、とにかく楽しかった。流石にこれ以上長居する訳にはいかないと思って程々の所で別れを告げたが、別れは名残惜しかった。法師は、まだこの東屋に滞在すると言う。「気を付けて歩けよ」と言ってくれて、私も合掌をして別れる事にした。因みに、SNS等は使用していないと言う。なのでこの出会いはこの時限りだろうと思った。その時以降もこの逢坂山の峠は歩いているし、その東屋でも休憩している。そしてその度に、あの法師の事を思い出すのであった。

川崎を出て、蒲田、品川と大都会をどんどん北上してゆき、銀座も越え、いよいよ日本橋に着いた時、一通り写真を取り終えたら、父親は地下鉄に乗って宿のある街へ向かい、私は歩いて宿へ向かうという事になり、しばらくは父親と別行動になったのであった。そして、宿の方角からして本来は日本橋を歩いて渡る必要は無かったのであるが、ここまで来て日本橋を渡らないというのも何だか変だと思い、大した理由は無かったものの、日本橋を北へ進んだのであった。すると、橋の上で菅笠を被り法衣を着た法師が居た。なんと、その法師こそその逢坂山で出会った法師だったのである。一目見て「あっ」と驚いたし、何よりも、この街で、このタイミングで、そんな事が有り得るのだろうかと、この有り難さに絶えない感動を覚えたのであった。

法師とは抱き合った。「僕も近江から歩いて来たんです」と言うと「そうか、また会えると思ってたよ。しかしなぁ、山道に仏法は無かったろ」と言う。この日記でも書いてきたように、歩道が整備されていない山道は多かったし、山道は厳しいものであった。諸国を歩いている法師らしい反応であった。私はその話の有り難さに、ただ頷くしか無かった。そして私は、今、大谷派で得度を目指しているという話をした。すると法師は「それはいい事だ。俺は自力の行者だけどな、今度会った時は兄弟が親鸞さんの教えを説いてくれ。そうしたら、ああ、親鸞さんが来た、と思って、俺も他力の行者になるかもしれん」と笑顔で言う。私は勢いで「必ず。それまでもっと勉強します」
と言った。30分程話をして、今回も合掌をして別れた。何だか、この法師とはまた必ず会えるような気がした。我ながら「必ず」という言葉が軽いものであるとは思えなかった。

近江から18日かけて東京日本橋まで歩き、その日本橋の上で、会いたくても会えなかった思い出の法師に会えたという、そのあまりにも有り難い出来事が、この旅の終わりを飾るとはまさか思わなかった。私はあの法師こそ如来さんだと思った。不思議な旅の終わりを受けて、今日の宿までの道を歩き続けた。以前静岡を訪れた日に望んだ通り、宿の場所は五反田であった。思い出の地五反田までの道程は、あの橋の上での出来事は何だったのだろうと、絶えず振り返っていた。我は湖の子、さすらいの。旅にしあれば、しみじみと。大都会の中に来た私は、改めてそう思った。そうして夢中で歩いていたら、五反田へも到着した。あの時私を匿ってくれた五反田の街は、今回も明るい光と共に私を迎えてくれた。ここに来て一息付いて、長かった旅も終わったと感じた。

2024年近江発東京行徒歩旅行記 完結
工楽ノ佑

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