釈尊の述べた「八正道」に於ける、"正しさ"とは何か。(考察)
釈尊は、物事を正しく見て、正しく考えて、正しく行動する事を、「八正道」として説いて、勧めた。八正道とは具体的に何か。一つずつ連ねてみる。
一、正見(正しく見る事)
二、正思(正しく考える事)
三、正語(正しく言葉を用いる事)
四、正業(正しく振る舞う事)
五、正命(正しく生活する事)
六、正精進(正しく生活する事)
七、正念(正しく思念する事)
八、正定(正しく精神統一する事)
私はこれを初めて知った時に、疑問と不安で包まれた。まず、「正しい」とは何か、と云う疑問である。これがはっきりしなければ具体的に何をすれば良いのかわからない。抽象的過ぎて、疑問だったのである。
次に、その「正しい」とは、一般社会で謳われている一般道徳の事ではないかと云う不安である。そもそも私は反一般道徳的である。そんな道徳は人を幸せにしないと思わず憤慨する様な道徳は私の中では多くある。例えば今日の、道徳的な意味での"勤労の義務"等がそうだ。人生に於ける貴重な時間を多く使う事が"義務"とは何事かと思う。週五時間、一日八時間労働等論外である。こんな道徳的義務は幸福追求の侵害だと思う。こんな義務に従う事が仏教的に「正しい」とされるならば、私と仏教の縁もここまでだと思っていた。無論、仏教がそんな教えだとは思っていなかったので、私は今日に至るまで仏教が好きだったのだが。
しかし先程、植木雅俊先生の「仏教、本当の教え(中公新書)」を読んでいて、この疑問と不安はやや払拭された。まず、この「八正道」と云う教えが説かれた時代背景を整理すると、それはバラモン教が全盛の時代で、例えば闇雲に炎を燃やし時には動物まで燃やしたり、星占いに依って結婚を決めたり、冷たい川に四六時中浸かる事が、呪術的な意味で「正しい」とされていたのである。
釈尊は、この様な呪術を否定した。例えば、バラモン教では炎を燃やし火を崇拝する事に依って解脱する事が出来るとされていたが、それならば四六時中炎と向き合っている賤民である鍛冶屋が解脱していないのは可笑しい、とか、こんな調子である。これを踏まえると、釈尊は、「八正道」と云う教えを通じて、『形式的な正しさではなくて、自分が正しいと思う物の見方をして、自分が正しいと思う考え方をしっかり行動に移しなさい。』と述べたのではなかろうかと思えてくる。
植木先生の言葉を借りると、釈尊の言う「正しさ」とは、『人や生きものを犠牲にしたり、因習に囚われて無批判に追随したりするといった道理に反した在り方を否定している』のである。こうした捉え方をして「八正道」と云う教えと向き合うと、どこか少しほっとする様な、救われた様な気分になる。私は一応学生とは言え実態はニートの様な者で、労働を拒否しているが、私の人生に於いて、私にとってはこの生き方が道理に反しないと私が思うのであれば、その道を行けば良いと云う事になる。
私の感想としては、こう見てみると、この「八正道」と云う教えは根底には平等主義的な意味での、或いは反権威主義的な意味での、反知性主義的な考え方に通ずるものがあるとも思えた。無論、これで「八正道」の全てが理解出来たとは全く思っていない。これからももっともっと、仏教の教えに触れていきたい。