散歩道に金木犀を発見
9時頃に目が覚めた。しかしまだしっかりと布団から出る気にはなれなかったので、夢を見たり見なかったりして、10時頃になってようやくそろそろ珈琲でも飲むかと思い、布団を出てカーテンを開けた。その後は珈琲を片手に小一時間ゲームをし、一方で天気予報を見て何やら今日は多少気温が低いらしいと知り、それならば少し散歩にでも行くかと思い、昼前には家を出た。薄雲が空の全面にかかっており、青空は見えない。成程これは確かに暑いとは言えないと思ったが、だからと言って涼しいとまでは言えず、どっち付かずの天気でどうも冴えないなあと思いながら、例のスーパーを目指した。
しかしまあ、この気温であれば然程気持ち良くは無いが、一方で疲れがどんどん貯まる訳では無いので、例えば、例のスーパーのイートインに辿り着いて、そこで本を開いて少々の読書をするとか、そんな贅沢は叶う。真夏には実現しなかった贅沢である。如何せん、夏のあの暑さは私から幸福を奪う。全ての出来事の背景があの夏と云う季節であれば、私は恐らく今頃気が狂っている。大きく息を吸おうにも身体へ入って来る空気があのずっしりと重たい空気では堪ったものではない。その空気が幾分か軽くなった今は、涼しいとまではいかなくとも、あの夏の日々よりはマシだ。
司馬遼太郎の本を少しだけ読み進めて、ぼちぼち帰路に就くかと思い例のスーパーを出て、相変わらず薄い雲に覆われた空を眺めて、相変わらずマシではあるがどうも冴えない今日の空気に触れながらスーパーの出入り口から数歩進んでみると、仄かに金木犀の花の香りが漂ってきた。はて、こんな所に金木犀の木等植わってあっただろうかとふと右手を見ると、歩道の脇に植わってある木が目に入ったが、よくよく観察すると橙色の花が咲きかけていた。そうかこの木は金木犀であったのかと、植物に疎い私は、週に何回も通るこの散歩道に、新たな名所を発見したのであった。この香りに触れて、もう直にやって来る紅葉の季節を思い浮かべた。
書きながら思うが、こんな優雅な生活をしている人間は、日の本広しと言えど、然程存在しないだろう。大体、9時と云う時間に目が覚めて、されどまだ布団の中でうだうだとしていたいから10時までは夢を見たり見なかったりしていたとか、そんな午前中を過ごしている人間を知った時点で、大概の人間はこの私と云う人間の堕落を思うだろう。実際に、こんな堕落が一般的になる事は無く、仮に一般的になろうとした場合、そもそも堕落は成立しなくなる。私を含めた少数の人間しかこの様な堕落をしていないから、堕落が堕落として成立するのである。
されど、これでもまだ満たされない。堕落をやめてまともに生きると云う道を選んでは尚の事満たされないから、この堕落した地位を私は一応の安置として設定している訳だが、これで人生が完成した訳ではない。いや、完成するとは思えない。そもそも何をすれば完成するのかを、私は知らない。これでもまだ、欲して欲して、満たされなさを感じる私の奥底に、私は心底呆れてしまう。適当に起き、フラフラと散歩に行き、ああ金木犀の良い香りだなあと鼻をくんかくんかやっておれば、それで結構ではないか。何をこれ以上望むのだと、人間の奥底の部分に問うている。当然、答えは出ないので、結局人間のわからなさを不思議に思い、或いはそのわからなさを苦しみと捉え、嫌悪する日々が続く。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?