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大きな玉ねぎの下で(10)

 出版社の玄関を出る時、受付の方が僕を見て微笑んだ。僕は名刺を持って受付に行った。名刺を渡したくても渡す人が今まではいなかったので、誰にでも渡したかった。秋田に帰ったらこの自作の名刺は必要がなくなるだろう。受付の方へ名刺を渡しながら「ありがとうございました」とお礼を言った。受付の方が少し僕に顔を寄せてきた。小声で「安河さんは、小説家なのよ」と囁いた。そうだったのか、だから小説の内容や本になった時のことより、小説を書くことについて話をしてくれたのか。


 今回、東京へ来た目的は終えた。結果はわからないが始めて書いた3つの小説はすべて出版社の方に渡すだけは渡せた。

 緊張感から一気に解放された。脱力感さえ感じていた。急にお腹が空いてきた。ポケットからスマホを取り出し時間を見た。腕時計をつけているのに、ついついスマホに頼ってしまうことがある。スマホの画面を見るとLINEにいくつかメッセージが届いていた。亜紀からだ。

「たくちゃん、用事は済んだのかな?」
「さっきまで古書店を覗いたりしていたよ」
「今、大きな手のところに戻ってきた」
「どこだかわかる」
「あの店に行こうか」

いっぱいのメッセージが亜紀から送られていた。僕は慌てて返信をした。

「今から大きな手のところに行くよ。その手は野球のボールを持っているよね」
「正解!たくちゃんの好きな何かの『発祥の地』だよ」

急に懐かしくなった。間違いなくあの場所だ。ここからは近い。

「今、行くから」

 あの場所も僕たちの思い出の場所だ。亜紀の通っていた大学の近くでもあり、亜紀の授業が終わるのを待っていた場所でもあった。

 中学校の時、野球部だった僕は、この場所が日本野球発祥の地だということは亜紀と付き合うまで知らなかった。この日本野球発祥の地には野球ボールを握った大きな手のブロンズ像がある。除幕式には巨人軍の元監督の川上監督も来たらしい。でもこのエリアは東京大学の発祥の地でもあるようだ。何気なく待ち合わせをしていた場所は、歴史ある場所だった。

 僕の思い出の缶詰はどんどん開かれていた。そして一つひとつが鮮明になってきたのだ。高さ2メートル以上あるブロンズ像の横に並んで写真を撮りたいと背伸びをする僕を、お腹を抱えながら笑っていた亜紀。あれから10年近く過ぎた。でも亜紀は変わっていない。

 僕は地下道のA8出口近くに戻って来た。地下鉄で最初の出版社に行くときに通った出口だ。そこからは、緑の垣根の向こうに日本野球発祥の地のブロンズ像が見える。その垣根のところから薄茶色の帽子が見えた。しかもキャップだ。あの色の帽子はきっと亜紀だ。亜紀は学生時代からベージュ系、茶系の色が好きだった。その色をもとに服装もバッグも靴もコーディネートしていたようだった。

「亜紀は茶色が好きなの?」
「茶色って言わないで」
「え、それって茶色でしょ?」
「違うの、ブラウンだよ」
「同じだよ」
「違うの!」

 そんな会話をしたことまで思い出していた。確かに茶色とブラウンは違うらしいが、僕にとってはどちらも茶色に見えていた。

 そのブロンズ像は僕の目の前にある幅10メートル以上の道路の向こうにある。信号待ちをしていると茶色のキャップが動いた。垣根のところに座っていた亜紀が立ち上がったらしい。
 信号の色はまだ赤のままだった。亜紀は気づかないと思いながらも僕は手を振った。その時、亜紀が振り向き、僕をじっと見た。僕だと気づくと両手を上げて、飛び上がるように手を振った。30歳とは思えぬほど、周りも気にせず大きく手を振っている。

 亜紀と二人で会うのは大学を卒業してから初めてのことだった。信号が青になると僕は亜紀のいるブロンズ像のところに走って行った。亜紀は薄手の白いセーターにジーパン姿だった。その上から長めの茶系コートを着ていた。真っ白のスニーカーを履いている姿は、まだ学生のように見えた。

「びっくりしたよ」

いきなり亜紀が話し出した。

「どうしたんだ?」
「だって、道路の向こうでスーツ姿の男性が私をじっと見て手を振っていたんだもの。まさか、たくちゃんだとはね。今朝はジーパンだったよね」
「そう、夜行バスを降りてから着替えたんだ」

 いろいろなことを話したかった。亜紀も同じようだ。それは亜紀の喋り方が早口になっていたことでもわかった。

「亜紀は学生の時と変わらず、茶系が好きだな」
「茶色じゃないよ。ブラウンだって」

 亜紀も学生時代の話を思い出しているようだった。亜紀と夜行バスで会ってからずっと気になっていることがあった。子供がいるということは結婚をしているのだろう。でも、とてもそうとは思えなかった。はしゃぎ回る学生の時の亜紀のままだった。何かわからぬ違和感を感じていた。
(二人は学生時代の時のように話をはじめた。そして二人は・・・。次回へ続く)


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