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空間と手料理にほっこりした日のこと。
今年は、桜を見ることなく春が過ぎてしまった。
テレワークで固まった身体を解きにいくと、家の近くにある1本の桜の木がすでに新緑になっていることに気がつく。
適応力というのは本当に不思議なもので、前職ではうまく切り替えられなかったテレワークも、転職して環境も人も変われば卒なくこなすことができている。
そういえば、変化に対する抵抗が小さくなったのはいつ頃からだろう。
わたしは何もかもが遅れていて、周りのテンションや雰囲気に馴染むのに非常に時間を要してしまう。億劫だ、変わることに疲れる。
俯瞰でみたときに、ひとりポツンと心がついていけていない。
時間がかかりながらも、今更ながらそれらを回収するかのように、過ごしているのである。
いまの自分なら出来るかもしれないけれど、そのときに戻ったらきっと同じことをしてしまうだろうなという、半分諦めと妥協で。なるようになる、と受け入れられるようになった。
周りの変化にはどう感じていただろう。
周りに影響されやすい性分だからこそ、かもしれないが、自分の変化への抵抗が小さくなってきたのに、周りの変化に対して知らない感情を持つこともあった。
なんてお節介な話で放っておけばいいじゃない、なのに、変に繊細な自分がいるのはまちがいない。
それらをようやく、自分の中にうまく咀嚼できるようになってきたような気がする。
と、いうことに気づいたのが最近の出来事である。(ようやく本題)
ここ数年、年齢のせいもあるのか、友人夫婦と過ごすことが増えた。
同棲や結婚、子どもも増えて、ああ仲良しのお友だちがどこかに行ってしまう、と半ば冗談のようにいうことが実は本心に近いということもある。
先日は友人夫婦の家にお邪魔した。
彼女はよく、我が家に遊びに来てくれるうちの1人で「いつも振る舞ってくれるから、今回は美味しいご飯を食べてもらいたい」と。
何もしなくて良いから待っていてと、放っておかれるのも気が気でなく、うろうろするだけして、
わたしの大好きな餃子や牡蠣、そして2人は飲まないのにお酒まで用意してくれた。
食べながら話して、2人がゲームで戦うのを横からちゃちゃ入れて。
ああなんて、素敵な時間なんだ、と寝るときに思い返していた。
わたしにはこの関係性と空間がとても心地いい。
これまで知らなかった世界に、訪れることができた。
わたしは人の幸せをみて、心にぽっかり穴が空くのではなくて、ほっこりした気持ちになるんだなあ、と、同世代が無意識に感じられていたことを、ようやく感じることができたのである。
いいおやすみでした。