僕とメサイアコンプレックス
寝るまでもう少し、なのでメモがてら先日アドラーの本で書いてあったメサイアコンプレックスについて書きたい。
というのも、人道支援施設で働いていたときに、
施設の門を叩くハンデキャップのある人たちにこれが多く当てはまった。
Wiki参照
メサイアコンプレックス(英: Messiah complex)とは、個人が救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である[1]。キリストコンプレックスまたはメシアコンプレックス、救世主妄想とも呼ばれる。
狭義には誇大妄想的な願望を持つ宗教家などに見られる心理状態を指すが、広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める。
というのがメサイアコンプレックス。
かく言う僕もついこないだまで人に優しくしないと!愛を持たないと!誰も周りにいてくれない!と常に思っていた。
今では孤独も和らいで、1人もかなり平気だし、
人にも会う、
そんな中で、別に好き勝手生きてて良くない?
別に過度に優しくする必要ないでしょ?
そんな風に自分生きて来てないよね?
って優しくしようとする自分に癇癪を起こして笑
それがわかってからものすごく楽になった。
何事もやり過ぎてしまうから、人道支援施設の職員になるところまでやってしまう。。。
でも凄く良い体験だった。
約一年半ほど働いたあとに、
自分の人生に戻ろうと言うところまで来た。
それはつまりそこまで自尊心が回復したのだと思う。
実際に自殺志願者、ホームレス、DV、家出、マスコミ対応、ひっきりなしの電話相談、メール相談、炊き出し
何でも介入した。
ゴミ拾いも毎日やった。
ボランティアしたいと、
決めつけで悪いけどメサイアコンプレックスな相談者の方達とも沢山活動したが、
現実は甘くない。
正直、やり切れた人は僕がいた一年半の中では1人もいなかった。
ただ、それは定義を読むと当たり前で、
自尊心の欠如から人を助けて埋めようとしている。
つまり、助けて欲しいのは自分で二次的な副産物で自分の自尊心を埋めようとしている。
人助け、特に僕がいた施設は強烈で、
そんな生半可な気持ちでは折れてしまう。
当たり前だけど、助けて欲しいのは助ける側ではなかった。
自分が、助けているのに褒められない、救われない、スポットライトが当たらないと知ると
いつの間にか、理由をつけていなくなった。
ちなみに僕が何故続けられたかというと、
本当に生きる希望を無くしていたから。
そこから、助かろうとも思っていなかったし、
人を助けることに興味もなかった。
本当に全くなかった。
健康なボランティアの方たちのことを偽善者と心の中では疑っていた。。。
そんな自分を見て、
施設の代表に、
生きる意味がないなら俺のために死ぬ前に命を貸せよと言われたのだった。
どうでもいい、
だからやっても良い。
その時の僕の返事は、
良いですけど、僕が仮に助からなかったとしても騒がないでほしい、もう失望させたくない。
そう言ったのを覚えてる。
すると代表は、
お前が気にする事じゃない、
じゃあ来週からな。
それでやることになった。
やっていくうちに人に頼られて、頼まれる。
人を助けることを結果やり続けた。
全く心は動かないけど、
もう生きる価値がないと嘆く人たちの話を聞いて、僕は気持ちがわかった。
気持ち悪いくらいわかる。
死ぬなら死んだら良い。
でもよかったら、僕の仕事少し手伝ってくれない?よくそう誘っていた。
どうやら人助けは、
助けたい、助けて何か得たい、
そう言った雑念全てが不要らしかった。
代表が僕を何で誘ってくれたか、、、今は少しわかるような気がしている。
孤独や絶望の味を知らないやつに、
孤独、絶望に苛まれる人は解らない。
それが何となくわかった。
先日、僕はその孤独,絶望の自分を救うためのメサイアコンプレックスの呪縛を解いた。
自分には価値がある、
過度に助けなくても、愛さなくても
人は愛してくれるし、自分は人を愛す、
資本主義の社会、少しは自分勝手に
自信持って這い上がって、勝手したって
また別の意味で愛?優しさを持っていれば、
それって魅力的にしかならなくないか?
そう思った。
あぁ、そうだった、、
そんな人間だったなぁって、
そのメサイアコンプレックスと愛と憎しみと救いの寄り道を随分して、
元々は身勝手で資本主義的な
成り上がり、這い上がり
自分勝手でいて、魅力的な僕は、
少しだけ深みが出たかな、、、
出るかなぁ、、
そんなことを思うのでした。