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お風呂で浮かんだこと

今日は友達と約束してたけど、頭痛がきつくて断念。
1人でお寿司食べて、そのあと温泉へ。
ロキソニンとスマトリプタンを二重鎮痛剤で痛みは無くなる。
その間に血流流すと良くなるという、いつもの荒技でした。


母の手術のために帰省しているけど、
周りの家族のようによく頑張ったとか、無事で良かったという気持ちには正直なれてない。


山奥で1人なので、LINEで友達おばさまに愚痴をポツポツ送ると、
不意に問われた。

なんで、感謝も何もしていないお母さんにわざわざ優しくするの?ふと疑問なんだけど?


もちろん、そのおばさまは親なんだから大事にしなよと普段から言ってくるているが、
引き出しを変えて問うたのだろうと思う。


家族構成とこれまでのことをポツポツ書いた、
その後に他人にも自分にも幸せになる権利がある。自分のために優しくしていると答えた。


自分のために優しくしているけど、心はガクガクきている。
そんなところだ。


でも本当は人を幸せにするんでなく、
自分が幸せになりたい。
それも本当。


ただ、自分のことはにっちもさっちもいかない状況で、何かの足しになるならと人の役に立とうとしている。

これも本当。


自分の方に向いても得られるものがない場合は人生往々にしてある。

そんな時は、いっそ人のことを助けようとある時に思った。


他人のことにかまけて、依存しているのではなくて、この信念には、
無常を意識してるから。


人は、どんな風に変わるかもわからない。
愛していると言ってたって、
次の年には見るだけで嫌だと思う場合だってあると思う。


その時に、どうせ冷たくなるから愛してるが信じられない人間にも僕はならない。
その時はありがとう!と胸を張って受け止めるし、そうする努力をする。

でもそのあとに、愛が無くなっても、
無常の真理に立ち戻る。


寂しいことなようにも思うけど、
無常が無ければ希望も持てない。


3年ほど前は、月に50万ほどは使って、
タクシー移動ばかり、
それが今は生活保護でひもじい生活。

これも深みと思えてくる。
でも正直、つらいし、抜け出ようとしている。


この状況が嫌で自殺してしまおうと思う人もいれば、
絶対、出れる!大丈夫!
今できることをやろうとする僕もいる。


一度だけ、死のうとしたこともある。
狂言自殺と、親戚には揶揄されたけど、300錠以上眠剤を飲んで、湯船に真冬に水を張って、
手紙も書いて死のうとした。
その時は絶望は絶望だけど、
家族からは攻撃されて、医療も福祉もダメ、
原因もわからない状況に、
ここまでかー!って踏ん切りつけたのを覚えている。


だからそう決めたら、そうなんだと思う。
今は一回失敗したから、
もうその手は使わない。
本気で出口を探す。
というよりも、まだ来るなと言われたと思っている。
なら、あとは楽しんでやろうじゃないか。


お風呂で浮かんだ言葉は

いつまで不幸なフリするの?

だった。


いや、こんな1日頑張ったら弱ってしまう体と、症状!元の仕事も無理だし!自由もないし!
障害者だし!生活保護だし!!


だから、なんなんだ?


助けてくれる人がいて、
家族とも復縁した、
自分はどんどん回復していて、
今年は人との再会、
演奏、編曲、

いろんな事ができた。


去年の年末の苦しさを思いますと、今まちがいなく半分以下になっている。


それで、まだ不幸だー!って騒いでるのは良い。
けどそれに意味あるの?


抜け出すー!って決めてるのに、
不幸だーとは言っていたい!


そうなんだよな。
ぐちぐち言うんだよなぁ。
言いたいんだよ。


一年前、人道支援で学んだ事。
やらない善より、やる偽善。


そう、ぐちぐち言う、
母には僕が死にかけた時は冷たくあしらったくせに、てめぇなんだよ!

でも、哀れみ持って、優しくしてやらぁ、
息子の凄さちゃんとわかってる?
お礼言えよ?
感謝しろよ?


愚痴愚痴いってやろう。
でも全部やってやろう。
もちろん身を滅ぼさない範囲で


抜け出してやる。
不幸のフリは言ってるだけ、
ぐちぐち言うけど、
やってしまう。


赤ちゃんじゃない、
ぐちぐち言ってうずくまってても蹴られる場所で育った。

そんな柔になった覚えはない。
不幸のフリはもう捨てよう。

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