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「伊藤苗木」訪問記<前編>|『僕の漫画農業日記 昭和31〜36年−−14歳、農家を継ぐ』
千葉県印西市草深地区で野菜苗の生産・販売を行う(有)伊藤苗木の創業者が、昭和30年代の5年間に書きためた漫画日記を一冊にまとめた『僕の漫画農業日記 昭和31〜36年−−14歳、農家を継ぐ』が発売されました。
今回は、『季刊地域58号』(7/8発売)にて書評をご執筆いただいた法政大学教授・湯澤規子さんによる「伊藤苗木」訪問記を、前後編に分けてご紹介します。
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居ても立っても居られない
もう少しでゴールデンウイークが始まろうかという4月の下旬、農山漁村文化協会から私宛てに一冊の本の印刷原稿が届きました。タイトルには『僕の漫画農業日記』とあります。著者は千葉県印西市で苗木業を営む伊藤茂男さん。書評をお引き受けしたご縁で、発売より約1か月早く、その内容にふれる幸運に恵まれました。
もう、タイトルからしてワクワクと心が躍っていたのですが、表紙の漫画にノックアウトされた後は、ページをめくって目に飛び込んできた躍動感ある文章、そして表情豊かな漫画に目と心が釘付けになってしまいました。
もともと、「農業日記」というものに興味があり、これまでも日本各地に残された農業日記を垣間見る機会がありました。しかし、本書のような「漫画」が満載されている農業日記を見たのは初めてだったのです。それだけに驚きもひとしおで、内容にグイグイと惹き込まれていきました。
農業に関する歴史資料として、文章に「絵」が添えられた「絵農書」というものがあります。それは主に江戸時代に書かれたものを指すことが多いのですが、昨今では、高度経済成長期の激動を記録した絵が「現代絵農書」としてその資料的価値が発見され知られるようになりました。
一方、同じ「絵」とはいってもこれまでの「絵農書」というカテゴリーでは「漫画」が注目されることはありませんでした。だからこそ、私は伊藤さんが描いた「漫画農業日記」もぜひ絵農書研究の対象に入れて然るべきだと思いました。書評にはその気持ちを率直に書いています。
そんなわけでしたから、私は原稿をめくりながら居ても立っても居られなくなり、気がつけば、原稿をカバンに入れて千葉県印西市へと車を走らせていたのでした。もちろん、著者の伊藤さんに会いに行くために。
野菜苗を買いに行くという口実から
自分でも驚くぐらい無謀な行動でしたが、ちょうどその日は清々しい快晴だったということもあり、ドライブをしがてら我が家の小さな菜園用の野菜苗を買いに行くという口実を思いついたのでした。アポイントメントもせずにお訪ねするのは失礼とは思いつつ、叶うことなら印西という地域の風景の中に立ち、伊藤苗木の苗や土と出会ってから書評を書きたかったのです。
農村地域だった印西市で「北総台地開発」の一環としてニュータウン開発が始まったのは1970年代。そして現在は大企業のデータセンターが次々と立地しています。
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車窓からは刻々と変化するそうした地域の様子を確かめることができました。地図で見るとその変化は一目瞭然です。
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さらに車を走らせると、坂を下ったり上ったり、台地と谷地、地形のコントラストがはっきり感じられる道になりました。
ほどなくして伊藤苗木へ到着しました。
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連休の始まりとあって、ハウスの中は野菜苗を求めるお客さんで賑わっています。
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私も胡瓜、唐辛子、紫蘇、紫バジルの苗をかごに入れ、さりげなく会計に並びました。会計を待つ間、お店の人と話しているうちに、「じつは・・・」とこのたびの訪問の経緯を説明(白状?)することになりました。
突然の訪問にもかかわらず、ご家族に大歓迎され、幸運なことに伊藤茂男さんご本人にも会うことができました。そして、漫画のこと、農業のこと、土のことなどで話がはずみ、招かれるままに、図々しくもお宅に上がりこんでの聞き取り調査と相成りました。そこで教えてもらったこの地域の特徴や歴史は次のようなものでした。
「黒ッポク」と共にあゆむ農業経営
伊藤茂男さんが農業を営んできた草深集落の台地には黒ボク土が卓越しています。この地域ではそれを「黒ッポク」と呼ぶそうです。畑ごとに「亀ノ甲」、「怖録」など呼び名があり、それぞれ土質にも違いがあるそうです。黒ッポクの下に赤土が多めの「亀ノ甲」は何を植えても良く育つのだとか。それは『僕の漫画農業日記』にも書かれています。親しみを込めて畑の名前が記されている箇所が多いところも本書の読みどころ、見どころです。本の最初に伊藤茂男さん手書きの地図が掲載されているので、それを参照しながら読むと、まるでタイムスリップして野良仕事を追体験しているような気分になります。
黒ッポクは黒々とした色から肥沃に見えるのですが、実は肥料による土壌改良があってこそ作物が良く育つ、という特徴を持っています。この地域では、肥料は「でーじん(大尽)」と呼ばれる地主のヤマ(平地林)の落葉を分けてもらい、堆肥や苗床を仕込んでいたそうです。高度経済成長期にはその仕組みが少しずつ変わり始めます。1963年に近所にゴルフ場が造成された後は、そこで不要となる落葉を引き取って堆肥を作るようになり、それは現在まで続いています。苗床と堆肥づくりは『僕の漫画農業日記』に頻出します。伊藤さんが、いかに土に情熱を注いできたか、その気持ちや工夫が手に取るように伝わってくるのです。
農業とニュータウン開発と
戦時期に印旛陸軍飛行場となっていた「原」と呼ばれる3町歩ほどある広い台地は、戦後に開拓農地となり、スイカの集団栽培が始まりました。
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伊藤さんは、そこで植えられる苗を育て始めます。苗の需要は高まるばかりでした。高度経済成長期には農家も野菜苗を「買う」時代となり、それならばと、苗木生産に力を注ぐことにしたそうです。
スイカ栽培への情熱、仲間との会話とその熱気は漫画で存分に表現されています。その後、原台地は北総台地開発の舞台にもなっていきます。約1町5反はニュータウンに、残りの1町5反は農地として維持されました。その後、畑は徐々に住宅地に転換されて現在に至ります。土地利用のレイヤーとして、ここ100年間の地域の激動が幾重にも重なっているのです。
伊藤さんの農業経営は、一年のうちの半年は苗木生産、残りの半年は野菜栽培と行商で成り立っていました。行商先を開拓していたところ、木下駅前に立つ朝市のおばさんたちと取引することになりました。その出会いをきっかけにして、伊藤さん夫婦も直接東京へ行商に行くようになったといいます。
少し俯瞰してみると、時代はちょうど高度経済成長期、都市郊外の住宅開発が進み、都心に人が次々と流入する時期です。都心の胃袋を満たすために、伊藤さんは行商を始めていたことになります。つまり、伊藤苗木のあゆみは、まぎれもなく、ダイナミックな時代の変革期の一翼を担っていたということになるわけです。
ミクロな視点とマクロな視点の双方から見ると、伊藤苗木の歴史と伊藤茂男さんのライフヒストリーは、まるで日本農村の戦後史、高度経済成長期史を凝縮したようだと感じました。それが漫画農業日記に描かれていることの得難さを思わずにはいられません。
もっと話が聞きたくなりました。そこで私は再訪を約束し、伊藤さんからお土産にもらった「土」と苗木たちと一緒に帰路につきました。
季刊地域WEBでは、『季刊地域58号』(7/8発売)に掲載された、湯澤規子先生の書評を公開しています。あわせてご覧ください。
湯澤規子(ゆざわ・のりこ)
大阪府生まれ。筑波大学生命環境系准教授などを経て2019年より法政大学人間環境学部教授。専門は歴史地理学、地域経済学、農村社会学、地域史・産業史。「生きる」をテーマに地理学、歴史学、経済学の視点から日常を問い直すフィールドワークを重ねる。
著書に『胃袋の近代―食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)、『7袋のポテトチップス―食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社)、『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか―食人糞地理学ことはじめ』(ちくま新書)、絵本シリーズ『うんこでつながる世界とわたし』(全3巻、農文協)など多数。
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『僕の漫画農業日記 昭和31~36年−−14歳、農家を継ぐ』
伊藤茂男 絵と文
塩野米松 解説
定価 1,760円 (税込)
判型/頁数 A5 300頁
ISBNコード 9784540231919
購入はこちら https://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_54023191/
詳細はこちら https://toretate.nbkbooks.com/9784540231919/
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食べものがたりのすすめ(かんがえるタネ3)
湯澤規子 著
定価 1,540円(税込)
判型/頁数 四六 176頁
ISBNコード 9784540212208
購入はこちら https://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_54021220/
詳細はこちら https://toretate.nbkbooks.com/9784540212208/
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焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史
湯澤規子 著
定価 2,420円(税込)
判型/頁数 四六判 364頁
ISBNコード 9784041126493
購入はこちら https://shop.ruralnet.or.jp/b_no=05_04112649/