詩の勉強会
詩の勉強会に参加した。
今回は比較的参加者が少なく、一つ一つの詩に時間をかけることができた。
言葉の重さ とか、連の密度 とか
私にはまだわからない。言語化できない。
言われて改めて読むと、「そこはかとなく」感じられる程度である。
言葉の意味とか漢字の使い方などには、皆さん貪欲に検索もし、こだわる。緊張感のある時間である。
私自身の詩については、安定してきたみたいな捉えられ方だった。
持ち込んだ詩は以下である。
ピンク
四十年捨てずにいたセーターは
あまり着なかった
この二十年 思い出しもしなかった衣装ケース
とてもきれいなショッキングピンクは
華やかすぎるラメまがい
好きな色だった
モヘアの毛がシャツを突き抜けてちくちく刺さる
過去の自意識過剰を責めている
たっぷりの柔軟剤に漬け込んで
夜通しさおにつるしてみた
誰も見ていない(ことに昔 気づいた)
(好きに生きよう)(と決めた)(のは何年前か)
好きに生きても良いのだった
今の私は知っている
私がどんなピンクを着たって
お天道様だって気がつかない
自分なりに、行の順番を考えたり削ったりした。
削れなくて、( )で残したのは
( )のために少し圧が小さくなる感じで良かったと言われた。
自意識過剰という言葉は観念的過ぎるかもしれない ということと
お天道様 というのはもう若い人は「おてんとうさま」と読むことすら
できないかもしれないと言われると同じ年代の人はなるほど、と。
例えば、自意識過剰を「気おくれ」
お天道様を「飛んで行ったカラス」とかにすると良いのかもしれない。
チクチクするのは視線もでしょ、と言われた。確かに。
意識していなかったことも読み取られる。
こんなふうに日常をとらえる感じで続けていけばよいのではと言われた。
いくつかこの線で続けたら、
新しく挑戦せよ と言ってもらえるんだろうか。
ある意味、「100点には届かないけどね」という副音声が聞こえた気がして、それはそれで微妙な心持ではあった。
自分がどんな詩を書きたいか も定まっているわけではないし
そういうタイプの詩を書けるかどうかも、わかるわけもないのだから
自分がしっかりするしかないのであった。
一時間早く終わったので、女子会的なお茶会に参加した。
なかなか密度の濃い時間であった。
皆さん勉強会は緊張感のある時間だということだった。
楽しかったのだけれど、他者とのおしゃべり時間が
日頃少ない身としては相当気を張っていたのか疲れた。
因幡の白兎ではないが
「がまの穂綿にくるまる」時間をそれなりに必要としたのだった。