方丈記の古跡探訪〜その七
方丈記の古跡探訪の続きです。
前回は方丈庵のあったと思われる場所を探して日野の北側を探索しました。
今回は日野の西側、奈良街道沿いを探索します。日野の中心部から西に行くと方丈記に書かれている宇治方面を見るのに御蔵山の斜面の影響を受けにくくなります。
一方であんまり西に行くと日野を外れて石田や小栗栖に行ってしまうので、西の端の限界としては奈良街道付近くらいまでとします。
また奈良街道をどんどん南に行くと御蔵山の斜面を回避できますが、日野を離れて木幡、六地蔵となり宇治になるのであまり南下しないこととします。
奈良街道を醍醐から南下して、日野から流れてくる合場川を越えたあたりに小さな丘があります。
写真の左の木のある辺り一帯が市営住宅がある丘になってます。市営住宅を建てる際に土地の造成工事をして丘はあちこちで低くなっています。元はもう少し丘は高さがあったかもしれません。
この丘から南は宇治方面に向けて緩やかな下りの勾配になっていて、ここからなら岡屋の港方面は見えそうです。
ただし市営住宅内なので団地の階段登って写真撮るのはできてないので南側の眺望の検証はできてません。
ところでこの丘の地名が気になります。
「琴弾山」
と地元ではよばれています。
伝承では源平の合戦後、源氏に捕まっていた平重衡(平清盛の五男)が南都焼き討ちの咎で奈良に護送される際、日野に住んでいた奥方と付近にある屋敷で再開した後、別れ際に奥方がこの丘で琴を弾いたから琴弾山といわれるようになっとのこと。
しかし、奥方のいたとされる屋敷は奈良街道よりも少し東の所と云われています。今生の別れとはいえいくら従者が運ぶとはいえ、わざわざ屋敷から奈良街道沿いの山まで琴を運ぶでしょうか?琴て奥方の背丈よりも大きいですよ。それも山の中に琴を置けるようや平坦な場所がすぐにでも見つかりますかね。弾くなら遠ざかる重衡のために屋敷で弾くのではないでしょうか?
感動的なエピソードではありますが、一度きり琴を弾いたのが山の名前になるでしょうか?大事件の現場ならともかく。
地名になるくらい何度も常習的に山で琴を弾いている人がいると考えた方が自然ではないでしょうか?
山の中で琴を弾く人。
山に草庵を構えて、特注品の折りたたみの琴を持っている人がいますよね?
はい、平安・鎌倉時代のスーパー世捨て人、鴨長明です。
こんな郊外の山で琴や琵琶を弾ける人はそうそうおらんでしょう。ここでたびたび琴や琵琶弾いたら地名になるでしょ。
気分は水曜スペシャルです。
「怪奇!日野の山に琴を弾くオヤジを見た!」
いや東スポの見出しやなコレやと。
どうでしょ?琴弾山=方丈庵説。
真偽はともかく地理的要素としては方丈記の記述に近いのではないでしょうか。
いかがでしたか?方丈記の古跡をめぐっていろいろ探索してみました。
でも考古学上や文学上での決定的な発見はないですから個人的見解の一つとしてお楽しみください。
参考文献・参考サイト
・ビギナーズ・クラシックス日本の古典「方丈記(全)」著:鴨長明 編:武田友宏 (角川ソフィア文庫)
・「地図で楽しむ京都の近代」 編著:上杉和央・加藤政洋(風媒社)
・「重ね地図で読み解く京都1000年の歴史」 監修:谷川彰英 (宝島新書)
・二万五千分一地形図 京都東南部(陸軍陸地測量部 昭和七年発行)
・地理院地図(国土地理院)
・近畿農政局「巨椋池の歴史」