方丈記の古跡探訪〜その四
方丈記の古跡探訪の続きです。
方丈庵の周囲の様子も方丈記に描かれてます。
草庵の南には水を導く懸樋があって水を貯められるようにしてます。林が近くにあり薪を拾うのには困らないようです。カズラが生い茂っていて辺りの山道を隠していて、近くにある谷も草木に覆われて暗いことが述べられてます。
一方西側は見晴らしがよく、西方浄土に思いを馳せるのに良いようです。
草庵は外山(とやま)と呼ばれているところにあることも書かれてます。今も付近に外山街道町という地名があります。
また草庵からは宇治川東岸にある岡の屋の船着場に行き交う船が見えるとあります。岡屋の港は今の宇治川東岸の隠元橋あたりにあった港で付近には近衛家の別荘があったようです。今も付近に岡屋の地名が残っています。
でも日野から岡屋の港を見ようとすると、日野地域のすぐそばに標高85メートルの御蔵山(おぐらやま)という山があって日野の東側のエリアからは港は見えないんです。
そして方丈石からでは木々や向かいの山の尾根で西側の視界は遮られてしまいます。とても方丈記にあるように西の空は見えないんですね。岡の屋の港のある南西側も木々や向かいの山の尾根で隠れて見えません。
そもそも巨石の上に草庵を構えたなら岩について鴨長明が方丈記に書くはずだと思います。近くの地形について触れてるのに巨石について触れてないのは不自然ですね。
方丈記の記述と合致しないことが多いため、方丈石を方丈庵跡とするのは無理があります。
方丈石は古来からの巨石信仰で認識されてたものが、江戸時代に方丈記の史跡扱いにされたものではないでしょうか。(少し北の山科にも巨石が御神体になってる神社があります。)
ではどこに方丈庵があったのでしょう?次回の記事で考察してみます。
追記:
余談になりますが平安時代と今とでは宇治川の流路が少し違っています(秀吉が変えてます)。あと今は干拓されて面影はないですが戦前までは宇治川西岸一帯には巨椋池という広大な池がありました。巨椋池にはあちこちに島があったようです。池とはいわれてますが湖といっていいくらいの規模です。
方丈記にも草庵から見える蛍を槙島あたりの漁の篝火にたとえています。干拓後の今も槙島や向島など地名に島の名前が残っています。岡屋の地名も残っていますし、当時とはそれほど場所は変わらないとおもいます。
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