方丈記の古跡探訪〜その六
方丈記の古跡探訪の続きです。
地図で確かめても方丈石の辺りからは方丈記に書いてあるような眺望が望めないことがわかりました。
日野から宇治方面の眺望を遮る御蔵山を避けると日野の北側もしくは西側が方丈庵のあったエリアと推定されます。
まずは日野の北側から調べてみます。
先の記事にも書いていますが、鴨長明が住んでいるところが外山(とやま)といわれてます。外山というのは山の中心部でなく山の外側、ふもとのことを示すことがあります。
ですので山中の奥深くでなく山すそに住んでいたのではないでしょうか。
日野の少し北に今も「外山街道町」という町名があります。外山街道町の地名のある付近で方丈庵のあったと思われる場所を探索してみましょう。
外山街道町の東の山すそに春日丘中学校があります。川は学校のすぐ南にありますがどうも近代に作られた用水路のようです。
写真の左側の奥に住宅のある丘陵、御蔵山が見えます。ここからでは御蔵山で奥にあるはずの宇治の岡屋の港は隠れてしまいます。
もっと北に行かないと御蔵山を避けられないようです。
ここは方丈庵のあった場所ではなさそうです。
次に訪ねたのは日野の北にある栢森(かやのもり)遺跡付近です。山すそにありなだらかな丘陵になっていて南側には川が流れています。
ここは平安時代末期から鎌倉時代初期に建立された醍醐寺の子院があった場所です。醍醐寺出身で東大寺再建にあたった重源も堂宇の建立に関わったとされます。鴨長明がいた頃にはここには醍醐寺の子院があったのでもう少し東側の山すそが推定地かと思います。
もう少し山すそに近づいてみたいところでしたが民家があって山に近づいて撮影するのはちょっと難しい感じでした。
さっきの場所よりは御蔵山は遠くなりましたが、写真左側の市営住宅の奥にまだ御蔵山にある住宅地が見えます。この写真を撮ったところよりももう少し標高が高いところに行かないと岡屋の港は見えないようですね。
次に栢森遺跡の北にある一言寺を訪ねてみました
一言寺は平安時代末期の建礼門院に仕えていた阿波内侍が創建したといわれてます。栢森遺跡よりは少し標高が高くなりますし、少し西に寄って御蔵山もかわしやすくなるはずですが、、、
西側は空が見えるんですけど、写真左側にあたる南西方向、岡屋の港の方向は民家に隠れてて見えません。御蔵山をかわせたのかどうかわかりませんね。
赤くて3倍早い大佐なら「見える、私にも見えるぞ」という透視能力があるんでしょうけど、あいにく凡人なので見えないものは見えません。
あと阿波内侍がいつ頃一言寺を創建したのか詳細な年がわかりませんが、平家物語の大原御幸のあった文治2年(1186年)には阿波内侍が老年であったとありますから、鴨長明が日野にきた建歴元年(1211年)にはすでに一言寺がここにあった可能性は高いのではないでしょうか。
そうなると一言寺の境内そのものでなく隣接した場所に方丈庵があったのかもしれません。
ただ、栢森遺跡の醍醐寺子院にしても阿波内侍の一言寺にしても方丈記には触れられてないのが気になりますね。山の麓にいる番人のことや周囲のことは書いてあるのに。重源や阿波内侍とかビッグネームの人のことには触れない主義なのでしょうか。
次に一言寺からの坂を下って奈良街道に近い醍醐中学校を訪ねてみます。
ここは母校で校舎から南の宇治方面をぼーっと眺めていたものです学校の南には川があります。
余談ですが学校から一言寺までの坂道を体育の準備運動で何往復も走ってヘロヘロになった思い出があります。
今は中学校は住宅地に囲まれてますが国土地理院のサイトにある戦後直後の航空写真などを見ると学校の周囲は田畑や林しかなく、鎌倉時代ならもっと何にもないと思います。
しかーし、当然、在校生ではないので学校内に入って撮影はできません。ここから宇治方面の眺望は検証できません!残念。
次回の記事では日野の西側の予想エリアを探訪してみます。
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