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わたしと、食べ物
ずいぶんと間が空いてしまいました。久しぶりの更新は「わたしと、○○」シリーズです。
考えごとが溜まらないとなかなか言葉を紡ぐまでに至らないのですが、最近はよく食べものについて考えを巡らせています。
というのも、帰国してもうすぐ2か月が経とうとしている今。しばらくは実家で母に料理をしてもらっていたのですが、彼女がしばらく静養している間に自炊をする機会が復活したのです。
暮らしを大切にするわたしとしては、衣食住のバランスをとる中でも、やはり自分の血肉になる食は大きな要素のひとつ。
とはいえ、学生の頃(高校では料理部に所属)やカフェ・飲食でバイトしていた頃、あとひとり暮らしを始めたばかりの頃を鑑みると、ひとえに経験不足だったと思うし「おいしいごはんを作る」の本筋を、味や見栄えなど違う方向に見出していたような気がします。
ってことで、ちょっと前置きが長くなりました。本当は「料理」にフォーカスしてもよかったのですが、もっと「食べる」という行為にも重きを置きたかったので今回は「食べ物」で。
「外ごはん」と「内ごはん」の考え方
まず、わたしが今回「食べ物」にフォーカスしようと思ったのは、自分でごはんを作って食べるのと、外食をするのには、違う目的があると思い直したからです。
菜食になってから久しいわたしは、普段ほとんど外食をしません。もともと小さなころから、家族で外食をする機会はかなり少なかったので、その影響もあるとは思います。
それでも、友人知人との外ごはんは、今でも毎回とても楽しい。個人的には「何を食べるか」よりも「誰とどんな時間を過ごすか」のほうが、外食のあ愛は特に大事な気がします。
もちろん、そこに付随するごはんはおいしくないのは悲しいので店選びは大切。とはいえ、グルメな外食を目的としない限り、わたしにとって外食は「人と空間・サービスで演出される時間を楽しむ」にある。と思う。し、実際に自分が飲食業界にいるときに意識していたことでもありました。感動の提供ってやつかしら。
ひとりの場合、誰かと外食するときよりも「何を食べたいか」を優先はします。が、それでもお店の雰囲気とか値段を踏まえて選択するという意味では、やはり少なくとも「食べる」以外の要素を求めているんじゃないかしら。
対して、自分が家で自炊する際の目的は、全然ちがう。もちろんおいしいものは食べたいのですが、それよりも「”食べる”を通して、自分を整える」要素を強く持っています。少なくとも今は、そう考えるようになりました。
たぶん、これをきちんと考えるようになったのは、ごく最近のこと。でも「整える」思想のきっかけをくれたのは、やはりマクロビオティックを学ぶ人たちのコミュニティで1年間暮らした経験からきています。
料理におけるマクロビって、本当にざっくりいってしまうと「陰」と「陽」それぞれの特性を持つ食材同士を組み合わせ「中庸」の状態へ近づけることを目指す食事法。とはいえ、マクロビそのものは食事療法というよりも「生き方のメソッド」であるという話は、もっと知られてもいいと思う。
とにかくここには、マクロビオティックの考え方を持った人たちがたくさんいた。けれど、料理のメソッドとしてマクロビを教わる機会はほとんどありませんでした。というわけで、1年も暮らしておきながらマクロビ料理の腕前が進歩した!とは到底いいがたい。
しかしこの場を出たあと、本格的に自分の身体の変化を、食べ物を通して敏感に感じられるようになりました。単純に、それまで食べていた畑の野菜・穀物や、ゆっくり時間をかけて発酵させた自家製調味料から、普通の既製品食材ばかりになったからだと思う。
プラス、やはりコミュニティに長く身を置いたことで、自然とマクロビ的な生き方の実践ができていたのだろうな、と今は感じています。
それで、また自分で自分のためにごはんを作るようになってから、やっと気が付いたのです。普段から口にする食べ物は「自分自身を内側から整えるものなのだ」と。
だから、たまに外食をするときは、めいっぱい楽しんだらいい。でもそれができるのは、普段の内ごはんが自分の身体を整えてくれるから。
そのバランスを保ってこそ、どちらの食事も心から楽しめるのだと思います。
日本の3大神器・米麦大豆と身土不二
ところで、特に最近、自分で日本の食材を使って料理をしていて、改めて思うのは「日本の食文化は本当に豊かだ」ということ。
気候と文化のおかげで、主食の米と小麦、醤油や味噌のもととなる大豆(小豆とかも入れれば豆類全般といっていい)が手に入りやすい環境というのは、なんとありがたいことか。
しかも米と麦は、粒だけじゃなくて外側についている菌を利用して糀(麹)が手に入る。さらに藁は畑のマルチや肥料にでき、暮らしの道具づくりの材料にもなる。なんてすばらしいんだ。
若い頃は魚よりも肉派だったし、和食よりも洋食とかエスニック系とか、ちょっと変わったものが好みでした。今でも洋食やエスニックな味付けは好きだけど、基本となる食材選びにおいて、日本は温暖な気候のおかげでラインナップが幅広いことに、今更ながら感動しているのです。
思えばヨーロッパに住んでいた頃は、季節の食材がすごくはっきりしていて(これはまた別の問題が潜んでいるのですが)、だからこそ市場で手に入る食材の数はかなり限られている印象でした。特にノルウェーなんて北すぎて自国生産の野菜が少なく、キャベツとじゃがいも以外、スーパーで見かけることなんて稀。あ、夏のベリーは別。
それぞれに食文化があり、とりわけわたしはリトアニアの工夫を凝らした食事が結構好きなのですが、そうはいっても気候の関係と内陸部が多い影響で肉料理ばかりだし、菜食として十分楽しめる環境は、外食だとまだ少ない(超絶余談ですが、個人的にバルト諸国を含む東欧の和食・菜食への味感覚は、か〜な〜り独特だと思う)。
自炊は自炊で楽しかったです。日本では手に入りにくい、ビーツやきのこ類・その他の食材を活用した食べ物づくりは、良い刺激にもなるし。わたしは異文化への慣れが妙に早いのか、ごはんじゃなくても割と大丈夫でした。その代わり自分でライ麦パンを頻繁に焼いていた。
ここまで書いてみて、北欧には北欧の良さがある。ライ麦やオーツをはじめとした穀物類は、日本とはまた違ったラインナップではあれど豊富。特にリトアニアは野菜や果物・あと養蜂の文化も長く続いているので、その辺りも楽しい。
大事なのは、その国で採れる食材を使うことが、自分を整える要素になりやすいということ。これもマクロビ的な考え方(身土不二)なんだろうけど、その土地の食べ物を食べるという行為は、土地の気候・文化に慣れるための大事なきっかけでもあるんだろうな、きっと。
でもやっぱり、この考え方を持って菜食をするなら、日本の食文化は最強です。お米や麦由来の製品(お麩とか)を使ったオルタナティブはいくらでもあるし、そもそも大豆製品が豊富という時点で優勝。
「つくる」と「食べる」の繋がり
今こそ、料理をする際は材料の買い出しからはじまるのがメジャーな時代。ですが、わたしは近い将来、出来る範囲で自給したいと思っています。
だって、わたしたちは「食べる」行為を通して、自然の恵みをいただいているんだもの。食べるために必要なのは、料理の以前に栽培・採取が入るのです。その段階をスキップしては、食べ物を口にすることはできない。
ちょっと前、どこかで「アメリカの子どもは、ホットドッグを野菜と思っている」というニュースを知りました。また、もっと前には「最近の子どもは、魚が切り身で泳いでいると思っている」なんて話も聞きました、よね(もちろん、全員そうだという話ではない)。
どちらも本当かよって思ってしまったが、そらスーパーやコンビニで、既に加工された状態の商品しか目にしていなければ、そうもなるさ。
思い返せば自分だって、実際にリトアニアの畑で種まきを経験するまで、レタスの種の存在なんか考えもしなかったもの。あんんんんなちっちゃい種から、立派な葉をつけるだなんて、生命ってすばらしい。
そう。いくら学校や本で「にんじんや玉ねぎ・りんごは植物だ」と知識を得たところで、実際にどのような場所で、どんな風に育って収穫されるのかを実際に目にするまでは、イメージすらできないのです。
食卓で目の前に並ぶ食材が、どこで・どんな風にできたのかを知らない暮らしは、果たして健康なのだろうか。身体だけの話ではなく、生き物として。
わたし自身、生粋の都会っ子だった子供時代(高校生くらいまで)は、食べ物に感謝するんだよと親から教わっていたものの、やっぱり実感はわいていなかったと思います。
高校生になってから、料理部の活動の一環として、地産地消を大切にする顧問の先生が企画してくれた合宿や、バイト先のカフェスタッフみんなで行ったオーガニック畑での出来事をきっかけに、なんとなく「食べ物って、人の手ありきで”つくる”んだな」と気が付いていきました。
そこから、いただきますの感謝の気持ちを以前にも増して忘れないようにしてきたけれど、感謝の先は自然の恵みだけでなく、生産や採取・商品づくりにかかわってくれた人たちにも向いている。
それでも、たとえばレストランで食べる料理はもちろんおいしいけれど、自分で作った適当おかずのおいしさはひとしおだったりする。それは、少なくとも料理を通して「つくる」行為を自分で体感することで得た「食べる」喜びなんじゃないかしら。
消費者として外食を楽しむ際は、空間やサービスありきの「体験」から満足を得るけれど、自炊ごはんは、消費者であると同時に作り手でもある。調理の過程を通してさまざまな「物語」を織り込むところに、最大の満足があるように思います。
この「物語」を、もっと前の栽培・採取の段階からはじめると、さらに喜び度は倍増します。ほかにも自給をしたい理由はいくつかありますが、この点だけでもわたしが自給に向かう目的は説明できる。
「つくる」があるからこそ「食べる」はもっと楽しくなるのだ。
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