感想 『そっと 静かに』 ハン・ガン
「木は」感想
五歳になった子どもに訊かれたことがある。
「ママはこの世でだれがいちばん好き?」
「それは……」
(略)
「ぼく以外で」
(略)
ためらいながら、「そりゃ木でしょ……」と私が答えると、子どもはやっと満足した。
「じゃあ、これからママのあだ名はナムだね」
子どもは走り去りながら、「ハン・ナム、ハン・ナム!」とからかうように叫んだ。あぁ、ほんとに木だったらどんなにいいだろう。私の名前が河を意味する河じゃなくて「ナム」だったら。
私たちの心が脆くなっているとき、疲れたとき、ときには悔しかったり、恨めしく悲しかったり、後悔したりする時、荒廃の深淵をのぞくとき、道が見えないときにも木はそこにいる。地中の闇から、細い根で水流を引き上げて、葉の先端まで押し上げながら。
河――流れを持つ水の塊――は環境の変化を受けながらも、ただあるがままに流れる。向かう方向は、急であろうと伸びやかであろうと、絶えず上から下へ、行くも止まるも地形に定められる。その運動には、意志に匹敵する法則性を見つけられない。流れに逆らわず、絶えず流れ続けるということを除いては。これは単なる言葉遊びで、現実とイメージの間に必然的な関係が言語によって結ばれることはない。水は絶えず流れ続けようとなど、していない。あるがままにすぎない。
流れ持つガンと象徴的に対比しているのが、木だ。木は、下に根を張り、固定となる基盤を築いて上へ伸びる。下から上へ、重力の向きに逆らう、生命や自然に最も大きく働く力の1つを持っている。
「固定」「下から上へ引き上げる」「逆らう」「暗闇を照らす灯」のイメージを持つ木と、「流動」「上から下へ流れる」「あるがまま」そして「水」のイメージを持つ河の組み合わせは、互いの存在の代替することのできない、昼と夜のような理を背負っているようにも、行動原理がまるで違う漫画のキャラクターが1つの画面に合わさっているかのようにも見える。
「木はいつでも私のそばに 空と私を繋ぎそこに 私の心の弱さと淋しさの深淵にある時も」
「そっと 静かに」 感想
この数ページにわたるテキストの1行、1行のあいだに織り込まれた夥しい言葉の数々を目で追いながら、その熱さに打ちひしがれました。表皮の下には、無数の毛細血管がこぢんまりと体の全土へ張り巡らされていて、この世界の神秘が宿っているように、それが人の手、手から離れ、あぁ、テキストに宿ったのだと感じて目が熱くなりました。時間と距離、そして精神的意味で身体からすごく遠くに離れた場所にあるものを、今この場所に、いっぺんに手繰り寄せる力――とてもアクロバティックな技法――に興奮し、と 同時にテキストが意味として持つ悲しさの全てが、瞬く間に私のものになりました。
私は幽霊を見ているような気分にこのことをなぞらえます。私が見たいと思って見ている、夢あるいは映画の1つのシークエンスのように、一連のテキストの実体を掴めませんでした。テキストは初めに何よりもイメージを鮮明に伝え、しかし、意味を正確に拾っていくと、私が握手したのは私の妄想ではないかという気がしてきました。翌日になって読み直してみると、昨日読んで知覚していたものとは、また異なる感触を得ました。いえ、それでも、断言できることがあります。今、少し影響を受けて、難しく書こうとしています。文章の後半が、文章の前半の意味を補完し、全く別な語りとして、聞こえてくるよう、饒舌であろうとしています。
彼女の作品を読んで、こう、思いました。人が生まれていなくなるまでに間に一体、どれほどの言葉が生まれるだろう?声になるのはそのうちの一体どれほどだろう?テキストになるのはそのうちの一体どれほどだろう?そのうちの一体どれほどが、効果を持ち、対価を得て、認められ、癒しへ生まれ直し、針のように突いて、人の心を変えるだろう。
この問いは、運命について、人体の神秘について、今朝私が食べたパンについて、つまり、喜びについて、悩みについて、格差について、愛する人の病について、母の冗談や車好きの父、そして私を育てた故郷について尋ねることとまるまる同じ問いです。「どうしてこんなことになったの?」原因と結果を掘り出しても掘り出しても止まらない地層を持つ時間、そして痛みについて、人類史の中で累々と横たわる、記名性を持たない多くの身体が私に証言している。無言のまま、ハン・ガンという作家の、言葉と言葉のあいだを借りて。
社会という名の構造やその力、影響について、直接言及的ではない記述によって深くメスを入れる。彼女の作品の力強さは、その点にあるのではないかと思いました。それは、離れたできごとやものごとを今ここにいっぺんに手繰り寄せる力。言葉の芸術的な力とは、呪術的な力であると感じられて、空恐ろしくも感じました。