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日本の「敬語」は本当に必要なのか?【イギリス滞在】

はじめに

私は、共同研究のためにイギリスに滞在する理系研究者です。
普段は日本の大学で、助教としてはたらいています。

私は上司にあたる教授の先生方のことを、普段〇〇先生とお呼びし、もちろん敬語を使っています。

一方で、海外に研究滞在する際の受け入れ研究者となってくれたボスの教授先生のことは、ファーストネームで呼び捨てで呼んでいます

これは、研究室のメンバーが全員、ボスのことをファーストネームで呼ぶからです

私は、日本文化に慣れ親しんだ日本人であり、
もちろん海外のボスも敬意を払うべき存在として接しています

そしてもちろん英語でも敬意を払うための表現は沢山あります

しかし、"英語でカジュアルに会話し、上司とファーストネームで呼び合う仲で仕事をする"のと、

"敬語で会話し、上司の失礼にあたらないように仕事をする"のでは、全く気分が違いました

インドは優秀な人が多いけれど、カーストという身分制度が足を引っ張っているという人がいます

日本では、実は敬語の存在が、特にイノベーションを起こすような研究開発の足を引っ張っているのではないか?

と、感じたので今回記事を書き始めました




敬語のメリット

先に敬語があることのメリットを考えましたが、この一点につきると思います

(1)敬意を示すことができる

敬語を使うことで、相手に尊敬の念を示すことができます

研究業界では、新米研究者の私に対しても、
他の先生方は「〇〇先生」と呼んでくださり、敬語を使うことで敬意を示してくださいます

私が尊敬する先生方のお子さんの年齢であったとしてもです

これによって、(当然ですが)学生ではなく、
私も一人前の研究者として扱われてるのだと感じます



敬語のデメリット

(1)敬語が正しく使用されない場合に、「敬意が示されてない」ことになる

敬意を示すことができる敬語は、それを使用しないことで「敬意を示さない」ということになってしまいます

「すいません」ではなく「すみません」
「了解です」ではなく「承知しました」

敬語の間違いに気づいて、何かひっかかったことはないでしょうか?

敬語を使われないことで、軽んじられていると感じたとはないでしょうか?

私もないとはいえません

でも、敬語が正しく使われていなかったからといって、本当に敬意が払われていなかったのでしょうか?

「敬語」がなければこんな考えにも至らなかったのではないでしょうか


(2)上下関係が明確になる

私は、これをデメリットに挙げましたが、時にはメリットにもなりえます。

特に、自分が上の立場であるときは、自分の優位性を明確にすることができるため、目下の人を管理するために有益になると考えます

しかし、上下関係が明確になるということは、
自分たちが対等でないことを示すことでもあります

敬語を使うことで、自分たちが対等でないという事実を毎日染み込ませているのです

そして、上下関係が明確になることで、確実に人間関係に距離ができます

距離ができることは、現代社会人にとって時には心地よいことかもしれません。でも本当によいことばかりでしょうか?

「あの人は、立場が上で給料も沢山もらってるから、これくらいのことは報告しなくて大丈夫でしょう」
「あの人は私たちとは違うから、私が助けなくても大丈夫でしょう」

そういう考えに陥りやすい土壌をつくってはないでしょうか


(3)年齢が違う者どうし、仕事で知り合った者どうしで友人関係になりにくい

(2)に関連しますが、上下関係を常に明確にする必要があるため、なにかしらの上下関係、あるいは敬意を払うべき関係性に当てはまる場合、距離を縮めることが困難になります

敬語を使用しないことは、「敬意を払っていない」ことになるためです

その結果、日本では比較的年齢が違う者どうし、仕事で知り合った者どうしで友人関係になりにくいです。

特に、私が普段過ごしている大学の研究室では海外との環境の違いが明らかです。

日本の学生たちは、たった1年の学年あるいは年齢の違いで、明確な上下関係があり、お互い距離をとって話します。

一方で、イギリスの研究室の学生たちは、全員がほぼ対等です。
特に、博士課程になると、どうやら博士課程1年生、2年生、3年生という概念がないようでした。みんな同じPhD studentなんです。

そういう点においても、イギリスの博士課程の学生たちは日本の学生よりも研究室での「孤独感」を感じづらいだろうなと思いました


(3)率直な意見交換の障壁となる

研究を遂行する上で、私はこの点が一番デメリットに感じています

シンプルに日本人は西洋人と比べて、学校教育において「自分の意見を述べること」についての訓練があまりされていないのもあると思います。

それに加えて、失礼にあたらないように気を付けて敬語を正しく用いなければならないため、率直で正直な意見が言いづらいのです

大学の研究室では、研究テーマの提案やそのための予算の獲得はもちろん大学教員が中心となって行いますが、実際に手を動かして実験しているのは、大学院生やポスドクです。

新しい発見やそのための足掛かりとなる気づきを得るためには、実際に手を動かしている大学院生やポスドクでしか気づけないような違和感やなんとなく〇〇な気がする?というような感覚が重要です

そのような気づきを、どれだけ共有し、あらゆる可能性について多角的に議論できるのかということは、研究の進捗に直結します

一概にはいえませんが、やはり一般的には日本の環境のほうがこのような率直な意見交換は積み重ねにくいのではないでしょうか



「敬語」によって壊れているものはないですか?


私は、海外でボスとファーストネームで呼びあう関係性で働いてきたことで、気持ちが多少なりとも変化するのを感じました

例えば、日本のボスの先生にご飯をごちそうになった場合「ごちそうさまです。ありがとうございます。」とはなりますが、

「次は私が払います」
「今度は私がなにかおもてなししなければ」
とは、そこまで深刻に考えません

しかし、海外のボスが相手だと、
「次は私がおもてなししないと」
「次回はもっと日本のお土産を持って来よう」
という気持ちが強くなっている気がします

やはり、対等でないのはわかっているのですが、海外のボスとの方がお互いが、"より対等な立場である"ことを無意識のうちに感じるのだと思います

日本から「敬語」の文化がなくなることはないと思います。

「敬語」をネガティブに感じている人も、そこまで多くはないのではないでしょうか。

このように「敬語」を用いて、上下関係を明確にし、敬意を払う文化はアジア圏で顕著だと思います

しかし、中国は日本ほど豊富な敬語はなく、上下関係も日本や韓国ほど厳しくないようです


相手に、敬意を示すことができるのは敬語の良い点ですが、敬意とは敬語がないと示せないものなのでしょうか?


私の好きな小説シリーズ、小野不由美 (著)『十二国記』にはこのような台詞があります

他者に頭を下げさせて、それで己の地位を確認しなければ安心できない者のことなど、私は知らない。それよりも、人に頭を下げるたび壊れていく者のほうが問題だと私は思う。人はね景麒、真実相手に感謝し、心から尊敬の念を感じたときには、自然に頭が下がるものだ。

十二国記 風の万里 黎明の空(下)

この台詞の主は「伏礼」に対して、このように述べ、伏礼を廃止します。


日本で、敬語によって壊れているものってないでしょうか…?




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