【コラム】我々は実在しない,真に実在するのは…│アウグスティヌス「告白」【連載5回目:2024/05/25】
著者プロフィール:
抜こう作用:元オンラインゲーマー、人狼Jというゲームで活動。人狼ゲームの戦術論をnoteに投稿したのがきっかけで、執筆活動を始める。月15冊程度本を読む読書家。書評、コラムなどをnoteに投稿。独特の筆致、アーティスティックな記号論理、衒学趣味が持ち味。大学生。ASD。IQ117。
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アウグスティヌスの「告白」を読んでいる。本書は、アウグスティヌスがエッセイ調に回心体験を書き連ねるものである。退屈な箇所も多いが、面白い箇所も多い。今回は、実在についての箇所を取り上げよう。
私達は、この世界こそが真の実在だと思っている。実際、存在というのは、我々の目の前に現れるという意味で使われており、世界の全ての物事は存在していると捉えられがちだ。しかし、ここで、疑問が生じる。我々は、この世界そのものが夢や仮想現実じゃないか、といった疑念を抱く。
こういった疑念が生じる事自体、この世界が不確実である事の証左である。真の実在界ならば、この世界への疑念など起きる訳がない。さて、この問いが生まれる理由は、この世界がなぜ存在するかが解明されていないからである。なぜ生まれてきたのかも、なぜ死ぬのかも分からない。我々の存在を規定しているものが分からない。よって、我々は真の存在者であるかが分からない。
こう考えると、中途半端な存在である我々に対して、「真なる実在世界」があるのではないか、という想像が生まれる。そこでは、なぜ実在しているかは理解しているし、知っている。しかし、自らが実在している理由を知っている存在という事は、自ら自身が実在の原因でなければ有り得ない。そして、それは、神でしか有り得ない。
永遠の実在である神というのは、つまりこういった論理である。我々の存在を規定している実在がいる。それは神である。兎も角として、こういった存在論はオーソドックスな有神論である。このような有神論に辿り着くには、まず、この世界を疑う所から始まる。
そうであった時に、真なる実在である神にすがるのは良い事である。どちらにせよ、我々は神の元に行くのだから。
という事で、アウグスティヌス「告白」連載ももう5回目に突入してしまった。皆様方、いつも「スキ」を押して下さりありがとうございます。あと5記事、執筆する予定ですので、お楽しみにして下さい。それでは。