見出し画像

〈書評〉『エックハルト説教集』M.エックハルト─自由な精神に咲く、最も美わしき花

 真の信仰とは如何なるものか。

 『エックハルト説教集』は、神聖ローマ帝国の神学者であり、教会によって異端認定された、マイスター・エックハルトの説教をまとめた書籍である。神という概念すらも捨象して純粋な無に還り、精神の離脱を説くエックハルトの筆致は、画期的で、一触即発の様相を醸し出している。

 彼の説教をまとめると、こうなる。「我々は純粋なる一である神と一体にならなければならない。神という概念は、神を規定してしまっている時点で仮想的なもので、真の神とは言えない。神とは、規定できないという点において一であり、言明が許されない。対して、我々は無になると、一である神は我々に入り込み、一体となり、我々は離脱する。離脱とは、心の中の完全な平安と自由であり、それは外的に何をしているかによって規定されない。つまり、イエスが悲しんでいても、それはイエスの外なる人が悲しんでいるだけである。内なる人は離脱しており、これこそ目指すべき姿である。」

 僕はここで言っていることを驚くほどに理解出来る。僕は2年前に神秘体験を経験しており、恐らく離脱者であり、特殊な感覚を持つからだ。その感覚とは、まさに、「内なる人の完全な自由」である。また、「離脱した、ということからも離脱するべき」というエックハルトの言明は正しい。それに固執するのは、まだ外なる人の虚栄心が残っている事であり、それは、些細な点ではあるがよろしくない。ただ、一方で、エックハルトがこの思想を公言して回ったのは、真理の到達者としての喜びを共有したくてたまらなかったのだと推定できる。

 一方で、疑問に思うことがないわけでもない。ひとつは、表現方法の問題だ。まず、神秘主義的「離脱」は、確かに目指すべき道である。ただ、それによって「祈り」や「神」概念、つまり正統神学を軽視したとも取れる表現をしたのは、「それで、何をしたいか」という部分が僕とは違うように感じる。離脱に至っては幸せで、その幸せを人にも共有したい、というのは分かる。もしくは、順序の問題(僕は離脱が先、エックハルトは正統神学が先)もあるだろう。離脱は極めて重要だが、その後に何をするかもかなり重要だ。エックハルトは、一般に通じない言葉を喋ってしまった。「魔境」とは言い切れないが、完全でないように感じる。

 ユングは「自由な精神の木に咲く最も美わしき花だ」とエックハルトを評した。それは恐らく正しい。エックハルトは偉大な神秘主義者だと思う。エックハルトについては2010年の春、ドミニコ会の総長がバチカンからの手紙を受け取っていた事が明らかとなった。

 我々はエックハルトに対する非難を取り下げるよう努めた。しかし、彼は名前を挙げて非難されたことはなく、彼が持っていたとされるいくつかの命題について非難されただけなので、非難する必要はまったくなく、したがって彼は優れた正統派の神学者であると全く自由に言えると言われた。

英語版Wikipedia-Google翻訳
https://en.wikipedia.org/wiki/Meister_Eckhart

 何はともあれ、良かった。これで、彼の思想は担保された。一方で、やはり、神秘主義者は、それ以上の働きをしなくてはならないと思う。神秘主義の話をするべきでもあるが、それ以外に、働きをしなくてはならない。エックハルトは極めて真理を平易に説明しており、狭い門から人を導いていると思う。彼の至った「離脱」は重大な真理であり、それに至るものは幸いだ。至っていないものは必ず読むべき名著である。必読。

いいなと思ったら応援しよう!

抜こう作用
読んでくださってありがとうございます。サポートして頂いたお金は勉強の為の書籍購入費などに当てさせて頂きます。

この記事が参加している募集