![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158835360/rectangle_large_type_2_11acff29d00b49902a9f5b9e2c8a534b.jpeg?width=1200)
〈書評〉神話と暴力の交錯──『テスカトリポカ』が描く新たな神々
神話は、それを持つものにとっては今なお生きている。
佐藤究は、残虐な神話と、鮮烈な裏社会の暴力、二つの調和をノンストップで描き、その事を示した。「テスカトリポカ」は第34回山本周五郎賞、第165回直木賞の同時受賞作である。祖母からアステカの神々について聞かされ、戦士として育ったバルミロは、麻薬カルテルのトップとして君臨していたが、対立組織によってカルテルを壊滅に追い込まれる。命からがら逃げ出したバルミロは、東南アジアを経由し、日本に辿り着く。家族〈ファミリア〉を殺したドゴ・カルテルへの復讐の為に、再度彼は裏社会で暗躍し始めた。一方、ルシアという女性は、家族をカルテルに殺され、逃げ出した先の日本でコシモを生む。コシモの父親は暴力団に属し、母親のルシアは薬中毒の中、ネグレクトで育ったが、両親を殺害し、少年院に収容される。この二人はやがて邂逅し、コシモはバルミロの武装勢力に加えいれられるが…。
キリスト教は、原始的な神話の評価を誤った。これは歴史的な事実である。メキシコはかつてアステカ王国が支配していたが、コンキスタドールによって侵略され、ありとあらゆる残虐行為が行われた。そして、住民はキリスト教に強制改宗させられたが、侵略者たちは彼らの神々を「悪魔」とみなした。キリスト教の悪魔ほど、単なる二元的で、脅威もなければ権威もないものはない。それと、彼らの集合的無意識(ユングの用語,我々が集団として共有している無意識)の中にいる、古の神々は同じでない。これは明白だった。神々は人々に畏怖を与えた。キリスト教徒は、この物語に真摯に向き合うべきだった。
物語は、そのような古の神々とそれを元に育った人々が、何かを訴えるかのようだ。彼らの信じる神は愛の神ではない。犠牲を捧げなくては、彼らを許してはおかない。バルミロは、そういった神を仰ぎ、NPOに拉致してきた子供を、寺で育て、心臓の闇取引で大金を稼ぐ。その金で武装し、ドゴ・カルテルを壊滅させることを願う。残虐の限りを尽くし、世界を血祭りに上げる。ところで、神はそのような行いを本当に望んでいるのだろうか?
コシモにナイフの製造を教え、またバルミロの勢力の一員に与していたパブロは、ふと父親の読んでいた聖書を読む。パブロは、そこで目にとまった一節に感銘を受け、やがて涙を流しながらコシモにその言葉を託す。マルコによる福音書9章13節。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」これは奇しくも、イエスの言葉だった。この言葉を受けたコシモは、最終的に物語の行き着く場所を大きく変えることになる。
最後は、バルミロの祖母のリベルタが、幼い頃のカルテルの兄弟達に神話を語るところで終わる。テスカトリポカという神の物語は、ある唯一神のエピソードと意味深な重なりを見せる。もし、アステカの神々は、ある神の顕現だったと解釈するならば、誰かがコシモに夢で語り掛けた意味は明らかになり、物語は壮大な次世代神話解釈として見定められることになる。とはいえ、それを決めるのは、他でもない、あなたである。歴史的傑作。期待以上の直木賞受賞作だった。
いいなと思ったら応援しよう!
![抜こう作用](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/140312742/profile_a6b33a6d716e6f228186ffd7c3fa4db1.png?width=600&crop=1:1,smart)