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ベックの認知療法、論理情動行動療法について、小学生並みの感想

 『認知行動療法の技法と臨床』を読んでいる。

 認知行動療法には、人間には以下の4機能、行動、認知、情動、生理があり、各々と結びついているという、臨床的フォーミュレーションモデルがあり、これを発展させたのが内山モデルである(p13-14)。認知行動療法に分類される療法は、内山モデルに基づき、それぞれの機能に相応する療法が存在する。ベックの認知療法は、コラム法などを用い、事態がどのような結果に帰着するかという不安の解釈自体へアプローチする(p23)。それに対して、論理情動行動療法は、その結果が何の問題があるのか、という所に視点を当てる。どちらも、認知機能へのアプローチである(p31)。


 心理学を学んでいる。現状、僕自身の心理的問題はほぼ解消しており、僅かに存在するフラッシュバックも、その瞬間を苦しめば後は何事もなく日常生活に回帰できるので、無問題である。むしろ、この学習の動機は、人様、心理的問題を抱えた他者へのアプローチをする為のものだ。それは、俗に言うメンヘラに限らず、ごく一般的な友人関係にも適応可能であると思っている。

 そういった意味で、ベックの認知療法の欠点は、実際にその推論が正しかった場合、療法自体への信頼性がなくなる事であると思う。可能性の問題になる。また、コラム法というのは些か治療的側面が強すぎ、心理士などの職務についた人のみ、相手の抵抗なく行う事が出来るアプローチであろう。一方で、論理情動行動療法の「無常」的思想、つまり、あらゆる結果は起こりうるが、起こったところでなんだというのか、という姿勢は有効である。第一、そのマインドに基づく反駁は日常会話でも十分実践可能に思われるからである。

 思うに、僕はこの「無常」的発想を持ち合わせている。僕の口癖は「そういうこともある」である。大抵のことはこれで済ませる。しかし、その中で、なるべく良い道に向かう為に実践していくのも込みである。僕が人にしょっちゅう悩み事を相談するのはその為である。それで、特に、対人会話において、大抵のことには「いいじゃん」と答えるのも同様の理由に基づく。大抵の事は素晴らしいことだ。これは、単なる無常的発想に、キリスト者としての精神性が付与されているのだろう。

 なんにせよ、論理情動行動療法をもう少し学びたいと思った。具体的な事例を多く読む事によって、自らの実践に肯定的影響を及ぼしたい。ところで、心理学を学んでいる動機の一部は不純なものなのだが、こういった多くの学習は最終的に自らの発展に繋がると思って、相変わらず継続して学習を続ける。

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抜こう作用
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