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「夜明けを待つ」読書感想文。

「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」で有名なノンフィクション作家、佐々涼子さんのエッセイ&ルポルタージュ作品集。

さいしょに綴られたエッセイに、こう書いてある。

私は取りつかれたように死の現場に取材に入った。

「死」が教えてくれること    

ほかに震災だったり終末医療に関する本などを出している筆者が、なぜその道を進んだのか。本書は、筆者の人生に散りばめられたそのルーツを垣間見せてくれる。


命や死にまつわるエッセイが多い

エッセイを3点、読んでスマホでnoteを開いた。死について語ったりすることは僕も好きでよくしているが、ことさら女性、母体である女性、命を妊み・産み落とす女性の方が、命や死という底の視えない泉に深く潜れるのかも知れないなと、この段落を書き置いた。

原始生殖細胞の暴走で髪や爪や歯などのパーツが生み出されることがあるという卵巣嚢腫の話がとくに面白くて上の段落をメモした。

第1章にエッセイ33篇、第2章にルポルタージュ9篇、本書には綴られている。以下は気になったワードを自分のためにメモしていく。

※とくにエッセイに関しては最終段落のサビであることが多いので、わりとネタバレであることには注意して欲しい。

第1章 エッセイ

この世の通路

私は新しい命を前にして、なぜか濃厚に死を意識した。

筆者が孫を抱いた時の描写。
「いいな〜孫欲しい!」(48歳男性/独身)
ってなった笑。


献身

死んでも子どもの役に立つんだもの

あるテレビ番組で、母蜘蛛が生まれた子どもに喰われるシーンを見た筆者の母の言葉。

ぼくは、親のスネは骨まで噛み砕いたが死んでもなお生きている、と感じることがある。


弔いの効用

葬儀で笑いが起こってしまうエッセイ。むしろ泣いた。死んでなお、命は美しい。


いつもの美容師さん

人生にほんの一瞬登場して消える映画のエキストラのようなもの

通り過ぎて行く端役相手だから話せることもあるというエッセイ。

彼らは私を通して、何か別のもっと大きなものと対話をしているのではないか。

ぼくもイベントバーで「死について語るバー」をやることがあるが、似ているのかも。


和製フォレスト・ガンプ

我々はみな運ばれている。どこへ運ばれていくのか。

そして今いるここは、どこなのか?


誰にもわからない

「今を生きなさい。自分の内側に戻りなさい」

死はわからない。誰も死んだことないから。死は自分の外側にある。死を見つめると、生に行きあたる。


トンネルの中

ぼんやり生きていれば、ものごとはバラバラで、人は分断され、運命から見放されて生きているように見える。

このエッセイが書かれたのは3年前。

ところが実際は、

と筆者は続ける。


スーツケース

誰に会うだろう。何を知るだろう。何を喜び、何を悲しむのか。

前に読んだ「旅の効用」を想起させる一文。


梅酒

自由で変化ある生活。でも、積み重ねも確かなものも何もなく、(中略)孤独はひたと影のようについてくる。

確かなもの、孤独。

「確かなもの」をそこに見た。(中略)長い時を経ないと、人の営みの本当の意味はわからない。

営み、確かなもの。


第2章 ルポルタージュ

ダブルリミテッド

住んでる国の言葉も母語も習得できずにいる「ダブルリミテッド」が教育や人格形成にもたらす弊害などについてのルポ。「哀しい」という単語を知らない子どもの話など。


禅はひとつ先の未来を予言するか

資本主義・情報社会の限界、向こう側。生きるのでなく生かされている。色々を手放してそこから降りることが出来るか。


オウム以外の人々

虚構の中で、ひとかどの人物になったような気がしているとすれば、それは錯覚だ。

彼らは何者なのか。私たちは何者か。

鏡を見ると自分の顔に麻原を見てしまったことがありました。

この現象を筆者はこう説明する。

〈彼ら〉はみな、同時代に生きた〈私たち〉だ。

筆者は自分の中に麻原を見たが、少し上の世代がテレビに釘付けになっていた連合赤軍にはあまりピンと来ないらしい。

下の世代、酒鬼薔薇聖斗。その犯行声明文にあった「透明な存在」を自分の中に見る世代もいるらしい。これにもピンと来ない。

なるほど。ぼくの世代で言えば、秋葉原通り魔事件の加藤だろうか。

麻原や酒鬼薔薇のことも分からないではないが、いちばん「ピンと来る」のは加藤。

みなさんはどうですか?

〈彼ら〉はみな、同時代に生きた〈私たち〉だ。

たまたま〈彼〉だっただけ。


悟らない

言葉を手放す

詩集「石」に出てくる「言葉よ音楽に戻れ」という一節が好き。それを思い出した。

それはただそこにある

「景色」という詩で「失ったものは ただそこに在るだけか」とぼくも歌っている(笑)

両手を打ち合わせると音がする。では、片手ではどんな音がするか?

これは有名な「隻手の音声」という禅問答らしい。

何かを言葉にすることは、昆虫採集のようなものだ。飛んでいる蝶を捕まえてきて、それにピンを刺す行為なのだ。(中略)言葉は、ある意味で死骸だった。

ありのままに。

しかし「哀しい」という単語を持たない子どもの話もあった。一度、捕まえてみるのも良いのかも知れない。

そうして、音楽に還したい。


あとがき

五五歳の私は、人よりだいぶ短い生涯の幕を、間もなく閉じることになる。

「ああ、楽しかった」と。


イイ本でした。ありがとうございました。

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