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なぜ凄い人になりたかったのか

前回noteで高校生のとき、普通になりたかったことがあったと書いた。

孤独には耐えられなかったから、周りに合わせようとしていた自分。

これは、未だにあるわけだけど、肩の荷がおりて今は、高校生のときほどはなくなった。

普通になりたかったあとに、大学生になり、凄い人になりたくなったのを佐々木さんのVoicyのタイトルで思い出した。

そのことを今回は、内省したいと思う。

承認を求めていた

ホリエモンなどの起業家がメディアを賑わせて、サークルで取材した先の経営者の方のキラキラした言葉に心躍った。

凄い人になれたことを想像したら、頑張れたのだ。

言葉は、全て借り物で薄っぺらかった。

あの人に会った、この人の本を読んだと、何かにつけて話していた気がする。

相手からの眼差しが欲しかった。

そのとき、陥っていたのは、凄い人になりたいという承認欲求が遥かに上回っていたということ。

何をするかよりも、どうありたいか

誰かの役に立ちたいとか、何か解決したいとかあるわけではなかった。

今思うと、まるで、SNSで悪ふざけした動画を挙げて目立とうとするのに例えは悪いが近い気がする。

理想の状態を考えて、今すべきことを行動するという言葉の捉え方を誤っていたのだと思う。

うまくいかなくて、求めてないことに手を伸ばして空回りをし始めた。

自分の声に耳を傾けた

凄い人というものを追いかけることによって、気づけたことだけど、そこにはあまり意味はない。

自分が何になりたいかよりも、どうありたいかが大切であり、その結果まわりが評価するだけである。

承認欲求を完全に手放せているわけではない。時には必要だとも考えている。

わかったうえで、今は、自分が受け取って大切にしたいことをただ淡々とやっていきたい。

ありたい姿をしっかりと自分に聴いたうえで、他者の声にも耳を傾けて自分よがりにならないように気をつけている。

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