どちらにお掛けですか 【10/10】
■金曜、午後6時
水曜日に電話を切ってから、おれは死んだも同然だった。
昨日……木曜日の晩は、電話の前に座り込んで、ひたすら薫からの電話を待った。
掛かってくるはずがなかった。
なぜなら薫は水曜日に、すべて語り終えたのだから。
寂しい限りで、あの自殺女からも電話は無かった。
ちゃんと死ねたのだろうか?
死ねたのなら、おれはひとつ他人にとって良いことをしたことになる。
薫の代わりに、あの自殺女を救ったのだから。
味気ない無意味な人生から解放したのだから。
電話が掛かってこないとなると、無性に寂しくなった。
木曜日の夜は、朝方まで眠れなかった。
眠ると、薫の夢を見た。
夢の中で薫は、おれと並んで歩いていた。
紺色のカラーのついた、白いセーラー服を着た、小柄で華奢な少女。
抜けるように白い肌を持ち、切れ長の瞳で、睫は長い。
小振りな鼻にうすい唇。
かたちのいい顎。
そして、唇はメンソレータムのリップの味がする。
前髪は眉毛の上あたりで短く切りそろえられており……
そして、後ろ髪を結構高い位置でポニーテールにしている。
それが薫にとてもよく似合っていた。
おれたちは並んでメロドラマみたいな枯れ葉の道を歩いたが……
残念なことに何を話したか、ちっとも覚えていない。
目が覚めると無性に寂しくなり、人恋しくなった。
だから、マッチングアプリを使った。
数時間後、おれはある駅の前で、その女が到着するのを待っていた。
名前は香(かおり)という。
とにかくそう名乗っていた。
今こっちに向かってるとこ、とさっきメールがあった。
その女に関しては、おれは何も知らない。
薫につていの方が、よく知ってるくらいだ。
だいたい、今その到着を待っている女の名前が、ほんとうに“香”であるかすら分からない。
おれは世界について何も知らない。
たとえば、薫に関しても……
彼女が聞かせてくれた話以上のことを、何も知らないに等しい。
そもそも、電話の向こうの少女の名前が“薫”だって、どうやって証明できるんだ?
“馨”かも知れないし、“芳”かも、“郁”かも知れない。
それどころか、全然ちがう別の名前を名乗った、ということもあり得る。
彼女が16歳だなんて、 なぜ断言できる?
そんなに人のことばを、やすやすと受け入れていいものか?
声が若いだけで、あの自殺女よりポンコツな40過ぎのおばはんが思い出話をしているだけかも知れない。
いや、そのおばはんがとても作り話上手で、“薫”も“37歳の家庭教師”も、そして二人の関係もすべて架空で、存在しないのかも知れない。
何だってあり得る。
何だって。
そう考えるうちに、何故だかおれの心は晴れ、頭は冴えてきた。
だから、“香”が駅の改札を出て、目印であるおれの“青い帽子”めがけて駆け寄ってきたとき……彼女がおれの中にあった“薫”のイメージとまったく食い違っていたことなど、さほど気にならなかった。
香の着ていたのは、紺のカラーのついたセーラー服ではなく、紺色のブレザーとブラウスだった。
学校の制服を着てくれないか、とおれがオーダーしたからだ。
香は背が高く、華奢ではなかった。
それどころか、前ボタ ンを外したブレザーの中では、その豊かすぎる胸がブラウスをぴちぴちに伸ばしていた。
その下のスカートは短くて、長くてムチムチと立派な脚が、白く柔らかそうな 太股の中央あたりまで覗いていた。
髪の毛も黒かったが、肩まで垂らしており、ポニーテールにもしていない。
どうやら頑固なくせ毛らしいその髪は、ふわふ わと風に揺れていた。
「ごめん、待った?」香はおれに言った「待ったよね?」
「いや、ぜんぜん」
おれは答えた。
香の顔をまじまじと見た。
切れ長の一重瞼も、小振りな鼻も口もなく、美少女とはいい難い。
いや、彼女の実際の年齢を知っているが、少女ではない。
少女ではなく、一人前の女の年齢だ。
でも、彼女の母校のものらしい制服はとてもよく似合っていて、眼の前にいればほんものの女子高生に見える。
「どう、似合う? ……いまでもまだまだいけるでしょ。ぜんぜんでしょ」
「うん、ぜんぜんいける。おれ、逮捕されるかもしんない」
おれは笑いながら答えた。
くっきりした二重の垂れ目と、厚めの唇、丸顔の輪郭とふんわりと紅い頬は、なかなかキュートだった。
それに肌は、想像の中の薫よりも白かった。
なんとなく、その場で抱きしめたくなったが、しなかった。
この子となら、結婚してもいいかも、なんて馬鹿なことも考えた。
大笑いだが。
「三万でいいの?」
おれは聞いた。
「うん、いいよ」
香は答えた。
「じゃあさ、それに5000円乗っけるから、いくつかおれのワガママ、聞いてくれる?」
香は首を傾げた。愛らしい仕草だった。
「え~……なに? ……あ、えーっと、縛るとか痛いのとか、そういうのはやだよ」
「…大丈夫」おれはそう言って香に笑いかけた「……まず、一つ目は、君のこと、“薫”って呼んでいいかな」
きょとんとしたあと、香は吹き出した。
「かおる?……え? なにそれ?」
「いいかな?」
おれは答えずに、もう一度聞いた。
「いいよ、べつに」素直な子だった。「じゃ、あたしは“薫ちゃん”ってことで」
「…それと、もひとつ」おれはポケットから髪をまとめる輪ゴムを出し、“香”から“薫”になった少女に手渡した「これで、ポニーテールにしてくれる? ……悪いけど」
「えー……マジ?」薫はおかしそうに笑った「ポニーテールが好きなんだ」
「うん」
おれは頷いた。
「むかし、高校んとき好きだった子がポニーテールにしてたとか?」
「うーん……そんなとこかな」
おかしそうに、クスクスと笑う薫。
「あとは? なんかある?」屈託なく薫が聞く。輪ゴムを口にくわえて、さっそく多めの髪の毛を後ろで纏めながら。「おもしろいから、もっと言って」
「じゃあさ、明日の朝、マクドナルドの朝セット食べよう」おれは言った「いいかな?」
「え、そんなんでいいの? ……ぜんぜん、OK」薫が髪を緩いポニーテールに纏め終え、屈託泣く言う「どう?似合う?」
おれはその愛らしい姿に見とれれていた。
本当に、これ以上ないほど愛らしかった。
「とても似合うよ」
おれは言った。
それからファミレスで晩ご飯を食べて、カラオケでお互い5曲ずつ歌って、そのあとラブホテルに入った。
<了>
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