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安全装置なしで崖上りをすることが美徳とされる社会

学校が望む姿。地域が望む姿。
子どもに望む姿を明確にし、行動指標を作る。
それを子どもと共有する。

私の地域の中学校区で今行われようとしていることである。

そうしてできあがった行動指標を眺めて、ふと考えたことについて話します。


子ども達に望む姿の中には、いろいろある。

思いやりがある。
友達を大切にする。
自ら学ぶ。
目標を持つ。
粘り強く挑戦する。
地域を愛する。
自分を高めていく。
自分を律し、反省しながら進む。
などなど。


できあがった行動指標を見ながら、「結局これを提示するのはいいけど、それを良しとして自分の目標にするかどうかは彼ら次第だよな」と元も子もないことを思う。

結局彼ら自身がその指標を受け入れ、こうなれたらいいよねという思いをもつことができなければ、これも壮大な押し付けだとも言える。



実は、今回話したいのはそこではない。

子ども達にのぞむ姿の中に、「相手を大切にする」という項目はあるのに、「自分を大切にする」という項目は入ってこないというところだ。

周りや相手を優先し、そのために自分を律する。反省する。合わせる。
迷惑をかけない。人を傷つけない。

私は思う。まず「自分を大切にする」でしょ。
そこが抜けているから苦しんでいる人がたくさんいるんだよ。
ということに、ほとんどの大人は気づいていない。

望む姿の中に「どんな自分も受け入れる子」なんて言葉が入るわけがない。

それはつまり、分厚いセーフティマットを用意せずに、素手だけで崖を登るのと同じだ。

崖を上ることを挑戦と捉えると、登りきることが成功で、足を踏み外して落ちてくることが失敗。
失敗する自分を受け入れられないということは、失敗すれば大けがをするということだ。

しかし、「どんな自分もありのまま受け入れる」という自己受容感があれば、ボフッと受け止めてくれる。落ちても大丈夫だ。また元気に復活して、挑戦できる。

もし失敗しても「失敗する自分は受け入れられない……」と硬い地面に打ち付けられ、心が大けがをしたら、この次同じことをしようと思うだろうか。
同じ挑戦をしようと思うだろうか。
そんなことするわけない。(心が)死んでしまう。
自分を守るために、崖を登ること自体をやめるだろう。
もしどうしても登らなくてはならないことがあったら、慎重を期して、恐る恐るありったけの勇気を振り絞って頑張らなければならない。そこに楽しむ余裕なんてない。


「どんな自分もありのまま受け入れる」という言葉自体に、ほとんんどの教師は「そんなこと許されるわけないだろ」と思うはず。
それが世間の一般常識だ。

それなのに、挑戦を続け、今よりもっと成長することを望む。
そんな子達を素晴らしいと思う。かっこいいと思う。
そんな子達を育てたいという。

しかし、よく考えてほしい。

それは、セーフティマットなしで崖に挑戦し、見事登りきる子を育てたいということではないのか。
よっぽどの手練れ、怖いもの知らずでなければ無理だ。
それを子ども達に望んでいるんだよ。

自己受容感を育まないということは、こういうことだ。
それをほとんどの大人が当たり前だと思っている社会。

そりゃあ、自殺者も増えるんでないの?

みんなで気づこう。自己受容の重要性に。
条件付き肯定の罠に。

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