8/5 追記『きみはだれかのどうでもいい人』
歯医者で歯石を取ってもらいながら、この本はなぜか本来対立しているはずの相手とは別の相手と対立してしまうことを書いた話でもあったな、と思い至る。
メモできない時に限って何やら思いつくものですね……。
そしてまたしても作品を読んだ感想というより、そこから自分が刺激を受けたことの記録です。
『きみはだれかのどうでもいい人』
こちらの記事の続きです。
小説内に見られたのは「男性優位の社会でそれぞれの語り手が何らか思い、行動に出るが、なぜか女性同士が対立してしまう」というパターン。
一番明確なのは、お局堀世代のお茶汲み女子のエピソードだ。
一人ひとりの好み、相手の状況に合わせ気配りの行き届いたお茶を届ける女性は、男性も女性と対等にという動きの中で、「あなたのような人がいるから女性の立場が変わらない」と責められたような気持ちになる。
この対立、なんかおかしい。女性は男性に対して対等であるよう求めているはずなのに、矛先に男性がいないように見える。
職場には男性もいるのに、ほとんど何も感じていそうにない。居た堪れなくなった女性がお茶汲みの配慮を止めると、ちょっとおもしろくないよね、と感じるといった程度だ。もっというと女性同士は怖いネ、と他人事のような感覚。
こういう構造がお局堀のころから、お茶汲みなどなくなり、女性にも出世の道が開かれて見える新人中沢の時代まで変わらず残っていることが見てとれる。
不均衡を是正しようとする側(女性)と、今ある社会に順応している側(女性)の対立になってしまう構造。ものすごく不毛だ。
無意識のバイアスを自覚するのは、たいがい不利な立場にある側だ。優位な側は無意識である分、不利であると訴えられると被害感を抱きやすい。何もしていないのに責められる、悪者にされると感じ、おもしろくないと不満を抱く。結果、女性を密かに憎み、マイクロアグレッションによってさりげなく辱めてしまう。
辱める時、使われるのが他の女性を引き合いに出すこと。男性優位の現状に疑問を抱かず適応した、無意識のバイアスに自覚的でない女性と比較するのだ。
こうして女性は女性を憎む。自分が辱められたのはその女性のせいだと感じるから。その対立を男性は「女性は怖いネ」と見物する。
怖いのは女性同士ではない。対立の構図に嵌められただけだ。
比較されて育った兄弟が親には愛や承認を求め、兄弟同士憎みあうように。そしてそれを親(優位にいる側)は「困った兄弟だ」としか認識できず「お兄ちゃんらしくいなさい(弟らしくなさい)」と自分に都合の悪い方を辱めることによってコントロールして無自覚でいるように。矛先を違える。
兄弟がこの構造に気づいた時、果たしてどうするだろう。
対立を恐れて、親に迎合していることに気づき、やめられるのか。
比較され辱められた憎しみを、無自覚な親にぶつけるのか。
憎み合ってきた兄弟と「大人と対等でありたい」という目的で一つになれるのか。
親の側は辱めることなく兄弟の主張を受け止められるのか。
従属させられていたものと優位にいたものが対等になるとは、同じように扱うということではない。
違う相手を互いに認め、思いやること。能力を決めつけて枠を押し付けるのではなく、ただ補い合うこと。
親子はスタートから全く対等ではあり得ないから、例として適切とは言えなかったかもしれないが、男女という対立項から離れて考えてみたかった。親子はいずれ対等になる。男女はそもそもスタートから異質ではあれ、対等なもののはずだ。
ポイントはそれぞれが憎しみをどう取り扱うかということになると思う。
まずは女性同士ぶつけ合うことになってしまった憎しみのやりとりを止めること。辱めたのは女性ではないのだから。
無意識的に辱められてきた「憎しみ」は、どんな感情を感じないようにするために生まれてきたのかを知り、(おそらく悲しみ)女性同士で受け止め合い、癒すこと。
男性を辱めることなく主張し、男性に何が対等でなかったか、対等であるとはどういうことかを示し、理解を促すこと。(責めてはならない)
無自覚な力の行使を受け入れないこと。
諦めずにやり遂げること。
女性はこの順番で実現していくことになるだろうか。
男性の側の他人事な感じ、もしくは被害感が不適切であると理解することは期待できるだろうか。
この記録、ほとんど連想だな!