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無理のない隷属。

日本の伝統的な規格寸法からの可変的な組み上げを考えて行くと、生産工程の打ち合わせや搬入などへも配慮が欠かせないことに気づく。

生産工程から運搬搬入、組み込み設置から交換変形までを一連のデザインと考えた時、質料と形相という言葉を思い出した。

質料と形相について考えた時、木には木の長さや太さ、暑さや間隔の限界寸法があって、「形相は質料に隷属するもんだな」となんとなくの気づき。

この隷属という言葉を変えると、「素材に対しても耳を傾け愛を以って」となるわけで、隷属と愛というのは同質なのかも知れないという新たな問い。

特に日本の建築家やデザイナーの方たちは土着性に付き従う方が多くて、土着を突き詰めると形相の質料への隷属となるわけで。

建築家やデザイナーみたいな方たちがピースフルで愛情深い方が多いのはそのせいかも知れないと思うわけです。

隷属への無理のなさ、すなわち愛を感じると「確かに」となるわけだけれど、その隷属からくるプロダクトたちの複合体が「空間」なので、視線や視座は長くなくてはならないと強く感じる。

さらに考えていくと機能は形相に隷属するため、その機能に従っている我々は質料には逆らえず、「地球すげぇ」となるわけで。

質料と形相は自然物も人工物にも備わっていて、おそらくだけどそれを「本質」と呼ぶのかも知れないと思うわけですね。

まだまだ建築産業は消費と生産の渦の中にあって昭和の余韻が抜けきらないわけで、絶妙に耳障りの良いプロモーションに我々は肩まで浸かっていて、本質について考える余白なんて残されていない(ケースが多い)。

質料も形相も無視して土着をも蔑ろにして、気密だの断熱だのに走る我々は、「揺らぎ」という我々にとって最重要の現象を手放しているわけで、それは随分と滑稽に映る。

とはいえ自然が生み出したのが我々なので、我々が揺らぎを手放すこと自体も自然の摂理と捉えると正に地獄で、きっと地獄は楽しいものなのだなと感じるわけです。

「幸福な地獄」

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