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【短編】『僕が入る墓』(中結編)
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僕が入る墓(中結編)
部屋に戻ると、網戸のそばに腰を屈めた義父の姿があった。僕には気づいていないようで、必死にセンサーの機械を壁板のどこかに隠していた。すぐ横に生えた草の陰には一匹の足の折れたカマキリが妙な動きをしていた。僕はカマキリがあまり好きではなかった。よく見ると、バッタを捕らえて食べているようだった。バッタはすでに体の半分を失っており、生々しさが余計に気分を悪くした。
明美のいない部屋はどこか寂しかった。明美の布団はすでに義母が洗濯してしまったようで、僕一人分の布団が大きな部屋の隅に敷かれていた。その喪失感あるいは孤独感は、夜になると一層強まった。目を瞑っていると今にも、隣から明美の唸り声が聞こえてきそうで恐ろしかった。何度も血だらけの明美の姿が脳内で再生された。明美がこんな目に遭ってしまったことへの悲しさよりも、恐怖によるトラウマの方が上回っていた。幸い田んぼから聞こえてくるカエルの鳴き声のおかげで、鬱々とした夜を沈黙が支配することはなかった。
コトンッ
突然どこからか音が聞こえた。僕はその音に聞き覚えがあった。前日にも部屋で寝ていた時に廊下の方で聞こえたのだ。僕は咄嗟に布団の中で身を縮めた。
コトンッ
再びその音は鳴った。僕は何者かが少しずつ僕のそばまで近づいてきているような気がした。しばらくカエルの鳴き声だけが聞こえてくると、そのコトンという音は連続して響き始めた。それと同時に一匹のカエルの影が月に照らされてガラス窓に張り付いた。僕はそれを見てほっとした。先ほどから聞こえてきた音はカエルが屋敷の外側に衝突する音だったのだ。僕はゆっくりと窓ガラスに張り付いたカエルを眺めた。暗くてよく見えないが、身体の輪郭だけははっきりしていた。中央の小さな胴体から細い手足がほぼ折り曲がった状態で生え、その先にはエイリアンを思わせるようなやけに長い指先が四本ずつ見えた。すると、ちょうどそのカエルが地面に落ちていったタイミングで小さな機械音が聞こえた。
ピィーー
どうやらカエルがセンサーに引っかかってしまったようだった。僕は仕方なく、センサーの音を止めようと窓の方に手を伸ばした。
バタンッ
僕はしっかりとその音を聞き取ってすぐに後ろを振り返った。間違いなかった。昨夜廊下の方から聞こえた音と同じだった。僕は窓にやった手を下げ、真っ暗な部屋の中を歩いて半分開いた扉の方へと向かった。扉から顔を出し、左右に首をゆっくりと振った。廊下は真っ暗であまりよく見えなかった。やはり気のせいだと思い、部屋に戻ろうとした時だった。
トットッ トットッ トットッ
暗闇の奥へと何者かが走り去る足音が廊下中に響き渡った。僕は突然の出来事にその場で足が固まった。一瞬それは幻聴なのではないかとさえ思ったが、義父の大声によってそれが現実だと分かった。
「誰だ!」
廊下の電気がつき、義父が勢いよく廊下を走ってきた。片方の手には剪定バサミ、もう片方にはノコギリがあった。
「見たのか?」
「いえ。見えませんでした」
「そうか」
すると後から義母も僕の部屋の方へとかけてきては、心配げな顔を見せた。義母は僕の腕をそっと掴むと、台所にあったはずの三徳包丁を手渡した。僕はその包丁を強く握りしめた。
先ほどしたガタンという音はなんだったのだろうか。扉を閉める音にしては妙に勢いづいた音だった。それほど強く戸を閉めたということだろうか。そしてその後素早くかけていったのは、何者かが身を隠そうとしている様子さえうかがえた。
突然背筋に寒気が走った。僕は以前屋敷を訪れた際に、見てはいけないものを見たのを思い出したのだ。それはちょうど身体を洗おうと浴室に行った時だった。その姿は、短い白髪で萎れた顔をしていた老婆だった。もしかすると、この屋敷には我々には見えない者たちが住んでいるのかもしれないと思った。すると、小さな奇妙な音が屋敷の外から聞こえてきた。僕は耳を澄ませた。
ピィー ピィー ピィー ピィー
その連続した音は先ほど窓の外から聞こえた機械音と同じだった。
「あの、この音って――」
「センサーが反応してる。しかもそこら中だ」
僕は義父のその返事を聞いて身を震わせた。
「複数いるぞ。気をつけろ」
僕は返事をする余裕さえなかった。遠くから窓ガラスが破られる大きな音がすると同時に、何者かの廊下をかける足音が屋敷のどこかしこで響いた。
「来るぞ!」
僕たちは腰を低くして身構えた。すると複数の足音は僕たちのことに気がついたのか、別の方向へと走り去っていった。今度は、他の窓ガラスの破られる音がした。台所の方からだった。すると複数の人間の駆け回る足音は一斉に止まった。静寂の中、ふとした瞬間目の前が真っ暗になった。ブレーカーを落とされたようだった。月の光が三徳包丁にのみ綺麗に反射していた。
ようやくカエルの鳴き声だけが屋敷を包み込み始めた時だった。僕のすぐ後ろで甲高い悲鳴が聞こえた。振り返る間もなく、その声は徐々に小さくなっていく。咄嗟に、襲われたのは義母だと確信した。何者かに腕を掴まれてどこかに引きずられているようだった。
「ママ!今助けるぞ!」
義父は僕の肩にぶつかったが、この際どうでも良いといった具合に勢いよく悲鳴のする方へと走っていった。僕は義父を追いかけるわけにもいかず、その場で立ち往生してしまった。足音がしなくなると静けさが僕の周りを襲った。依然としてセンサーの機械音とカエルの鳴き声が不気味なハーモニーを奏でるように屋敷の外から聞こえきた。
突然、何かに足首を掴まれたような気がした。しかし暗闇の中でその正体を探る術はなく、無理やり足を振って払い除けようと思った。その途端、僕はつるりと何かの液体に足を滑らせ、そのまま木板の床に倒れ込んだ。幸い頭はぶつけなかったものの、屋敷の壁に衝突して穴を開けてしまったようだった。ゆっくりと手を伸ばしてその穴の位置を確認した。ちょうど廊下の床と壁の狭間あたりにできていた。その穴は自分がぶつかってできた穴にしては大きかった。
バタン
穴の奥からあの物音が聞こえた。僕は床に膝をついて恐る恐る顔を穴の方へと近づけた。すると、頭が丸々中に入ってしまった。その時だった。何者かに後ろから押されたような気がすると、僕の身体は勢いよくその穴の中へと吸い込まれていった。何も見えないためか、まるで不思議の国のアリスのように永遠と屋敷の地下深くへと落ち続けているような錯覚に陥った。
義母はその間も家の廊下を引きずられていた。義父は一向に縮まらない義母との距離に業を煮やした。同時に目の前の廊下もずっとまっすぐ伸び続けていることにどこか違和感を覚えつつあった。まるで今の今まで実際に廊下を進んでいるのではなく、その場から全くもって動いていなかったかのように、目の前の景色は変わらなかった。
「ママ!絶対に助けるからな!」
一寸先に、月の光に照らされて義母の足首を垣間見たような気がした。俺は思わず全身を前に乗り出してそれに向かって飛びかかった。すると、その足は煙のように消え去り、素早く走り去る足音と共にいなくなった。扉に頭をぶつけてしまった。ようやく居間までたどり着いたようだった。俺は目の前に聳えた引き戸をゆっくりと横に滑らせた。依然として暗闇の中で義母の居場所を探すことは難しかった。すでに義母の悲鳴も聞こえなくなっていた。明美みたく深傷を負ってしまったのではないかと、あの時の明美の酷い姿が強迫観念のように自分の頭に取り憑いた。俺は一歩一歩といつも使っている居間の構造を思い出しながら前へと進んだ。明美に加えて妻も、不用心な自分のせいで襲われたと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになった。
久保田家が襲撃に遭う理由も、どこかで腑に落ちていた。代々久保田家は由緒正しい地主の家系として村を守ってきた。しかし貧困というものは裏切りがつきもので、手を差し伸べていた村人から度々襲われることもあったそうだ。そのことを幼少期に父親から聞かされた時は嘘だと思ったが、徐々に自分の家系がどれほど財産を持っているのか、そしていかにしてそれらを外部から守ってきたのかを知るにつれて、自分も父親と似たような考えを持つようになった。
実際に、町内で変な噂を立てられたり、やたらと久保田家の財産を狙って暴力団が怪しげな営業をかけてきたりなど、嫌がらせを受けることはしょっちゅうあった。小さかった明美にはなるべく話を誤魔化して嫌がらせとは無縁の生活を装っていたが、妻に対しては迷惑ばかりをかけていた。それを今まで当たり前のように感じていたものの、今になって実際に襲撃に遭ったことで、全てが自分の責任であると思え胸が痛くなった。自ずと父が死に際に、あれほど躍起になって「先祖の祟りだ」と騒いでいた気持ちも理解できた。
気づくと、月がちょうど部屋を照らし出して、妻が居間の机の上で仰向けになって倒れているのがわかった。俺は咄嗟に妻に声をかけた。
「大丈夫か?何があったんだ?」
妻は何も答えずに、ゆっくりと俺の方に視線を向けた。口を動かして何かを話しているようにも見えたが、何も聞こえなかった。妻の身体には打撲の跡が数箇所あったものの、明美みたく大きな切り傷は一切見つからなかった。俺は深く安堵の息をついた。妻はその間も何かを伝えようと必死に唇を動かしていた。俺は慎重に妻の口を見ながら、その語句を頭の中で一つに繋げてみた。
ウ ・ シ ・ ロ
その言葉が頭に浮かんだ途端、俺は後ろを振り返った。
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